ませんでした。しかし、落ち行くところは必ずや紀州竜神――竜神は昔から落人《おちうど》の落ち行くによい所であります。
 源三位頼政《げんざんみよりまさ》の後裔《こうえい》もここに落ちて来た。熊野で入水《じゅすい》したという平維盛《たいらのこれもり》もこの地へ落ちて来た。ずっと後の世になっても、乱を避け世を逃れた人の言い伝えが土地の古老の話に聞くと幾つも残っているのであります。
 兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の杣《そま》に聞くとこんなことを言いました――ある夜、一人の武士が、この山間《やまあい》の水の流れで頻《しき》りに眼を洗っていた。最初は水を飲んでいるのかと思って、よく見たら、幾度も幾度も眼を洗っていたのであった。杣と聞いて安心し、竜神へ出る道をよくたずねて、覚束《おぼつか》ない足どりで出かけて行った……
 たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた――かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。
 兵馬はこれに力を得て、息もつかず竜神まで追いかけ、さまざまの人の手を借りて、今日まで三日さがしたけれども、更にその行方が知れないのであり
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