さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」
「江戸へ逃げたい?」
 竜之助の面《かお》の表情は、笠でまるきり知れないけれども、その声は、キリキリと厚い氷を錐《きり》で揉《も》み込むような鋭い嘲《あざけ》りをも含んでいるのであります。
「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」
「ええ……」
 お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、先《せん》を打たれて驚き且《か》つ狼狽しました。
「それは余儀ない事情でございます……」
「余儀ない事情?」
「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」
「わからぬ」
「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」
 お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、
「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございま
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