どの、お前の身も」
相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の腸《はらわた》に沁《し》み込むようです。
「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」
「うむ――」
「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」
「…………」
「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」
「それが、どうして知れた」
「もう、人相書が廻っておりまする」
「人相書が?」
「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」
「それ故、あぶないと申すのじゃ」
竜之助はまた杖を取り直します。
「まあ、待って下さい」
お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、
「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して覘《ねら》っているお方がありまする」
「兄の仇? そんなことは……」
なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、
「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下
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