勢はこの時くずれた。
「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」
「ああ、左様でござんしたか」
 お豊は、その人にすがりつくように身をその足許《あしもと》に投げたのを、白衣の人、すなわち机竜之助は、徐《しず》かにその手で受けたが、二人が面《かお》を見合すべく、木《こ》の下闇《したやみ》は暗いし、よし日と月がかがやき渡っても、竜之助はおそらく昔の眼でこの女を見ることはできまい。
「まあ、あなたは……」
 お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。
 竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、遽《にわ》かに振り放つようにして、
「危ない、このまま別れよう」
 背を向けて、そうして杖で徐《しず》かに地を叩いて歩み出そうとします。
「どうぞ、お待ち下さい」
 お豊は、あわててその袂を捉《とら》えて、
「なぜ、そのように情《つれ》なくなさいます、あなた様のお身の上もお聞き申さねばならず、私の身の上もお話し申し上げねばなりませぬ」
 それでも竜之助は振返らない。
「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊
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