くれたこの宿屋の若い女房のことでありました。思いなしか、自分がいったん姉と慕ったお浜の面《おも》ざしにそっくりです。お浜は憎むべき女である。兄の身にとっては、竜之助よりはお浜の方がいっそう罪が重いかも知れぬ――竜之助を憎む兵馬には、お浜はなお悪いものでなければならぬはずですけれど、兵馬にはそれが心から憎くなれないのです。故郷へ帰った時は、よく世話をしてくれて、江戸にいる時は着物を送ってくれたり、土地のみやげを送ってくれたり、よく修行してえらい人になってくれと励ましてくれたこともある。芝の松原で、惨《むご》たらしい殺され方を見た時、その遺書《かきおき》を繰返して見た時、不貞の女の当然の報いを眼前に見せられても、なおその女が憎いとは兵馬には思えないで、やっぱり親切な姉の気持が離れないのでありました。
 兄の無念を思いやって、歯を咬《か》み鳴らす時も、嫂《あによめ》の面影は、やっぱり優しい人にうつる。竜之助を憎み悪《にく》む心が火のように燃えても、お浜を慕わしく哀れに思う心は消えないのです。
 兵馬は純良な少年である――まだ世の塵《ちり》にけがれない真白い頭へうつった優しい人の影は、消して消
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