それを心配して空に向って徒《いたず》らに吠えているのかとも思われます。
「犬が吠えてますなあ」
「そうでございます、よく吠えますなあ」
 上方《かみがた》の客と見える頭の禿《は》げた隠居と、和歌山あたりの商人《あきんど》と見えるのと、二人で湯槽《ゆぶね》の中で話していました。
 竜神村は、日高川の源、山と山との間、東西二里、南北五里がほどに二三十町ずつを隔てて、八カ所に家がある。その八カ所のうちのここは湯本といって、温泉宿が今では十九軒もある。その十九軒のうちの室町屋《むろまちや》というのが、この家でありました。
 もう少したつと客がドッと多くなるが、今のところは、夏と秋との移り変りであるのと、近国に戦乱があるのと、そんなこんなであまり客はないのです。
「まだ吠えてますなあ」
「あちらでも、こちらでも、吠え立ておるわい、どうしたものじゃろう」
 二人の客は湯槽から這い上って、隠居の方は軽石で踵《かかと》をこすりながら、
「何か、悪い獣が山から出てうせはせんかな、狼か、山犬か、猪《しし》かむじな[#「むじな」に傍点]か」
「近頃は、トンと左様な噂《うわさ》も聞きませぬ。なんにしても、こう
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