の眼は少しく冴《さ》えているばかりで、その面は例の通り蒼白い。
「ふーん、死に怯《おく》れたな」
 ほかの浪士は、憤激と軽蔑《けいべつ》の眼を合せて竜之助を見る。
「拙者は死にたくない」
 竜之助は冷やかなもの。
「忠義を忘れたか!」
 忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が最期《さいご》に似たりと浪士らは血を沸かせている間に、竜之助ばかりはどうしてもそんな気分になれないものと見えます。
「机氏」
 酒井賢二郎は逸《はや》る他の連中を抑え、
「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより強《し》いて死を求むるものではない、しからばこれより落ちるなり、逃げるなり、お心任せになさるがよい、さてその他の諸君」
 酒井はまた一座を見廻して、
「申し遺《のこ》すことなどもあらば、最後の思い出に書き給え」
 彼等は紙と矢立《やたて》を持っていまし
前へ 次へ
全85ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング