先触れを出しておいて、不意に浪花《なにわ》へ行く策略であったがな」
「彦根の間者が早くもそれと嗅《か》ぎつけて、大軍でおっ取り囲んだ――吉村殿と、安積《あづみ》五郎殿が一手を指揮して後方の敵に向うている間に、藤本、松本の両総裁が前面の敵を斬り開いて、中山卿を守護してあの場を落ち延びたが、さて危ないことであった」
「そこを落ち延びると、忽《たちま》ち紀州勢が現われて藤本殿はあわれ斬死《きりじに》じゃ。悼《いた》ましいことではあるが、その働きぶりは、さながら鬼神のすがたであった」
「その日の夕暮、またも行手に大敵が現われて、松本総裁は牧岡氏《まきおかうじ》と池氏とに後を托《たく》して、中山卿を守りて長州へ落ちよと申し含めて、自身は大敵の中で見事な切死《きりじに》」
「さてさて、天命是非もなし、我々こうして永らえているも、一《いつ》に中山卿の安否が知りたいため」
「それも、どうやら望みが絶えたわい――」
このなかでは最も重い、組の監察をしていた酒井賢二郎が言い出でた一語は沈痛に響きました。それは絶望の叫びであって同時に覚悟の決定を促《うなが》すように聞えたから、一同は暫らく無言で酒井の面《かお》を見ていると、酒井は、
「それに比べては僭越《せんえつ》であるが、建武《けんむ》の昔、楠正成卿が刀折れ矢尽きて後、湊川《みなとがわ》のほとりなる水車小舎に一族郎党と膝を交えて、七|生《しょう》までと忠義を誓われたその有様がどうやら、この場の風情《ふぜい》と似ているではないか」
「いかにも……」
「もはや、いずこへ落ちたとて袋の鼠、飢え疲れて名もなき者の手にかかり、縄目の恥なんどに遇《お》うて、先輩や同志の名を汚すはこの上もなき不本意、ここらで落着いて、武士らしい最期《さいご》を遂げようではないか」
「尤《もっと》も……」
一同は更に異存がない、異存らしい面色もない。死すべきところに死ななければ、死せざるに勝《まさ》る恥があるということの分別はいずれも人後《じんご》に落ちないものであったから、彼等は死を争おうとも、それに異議を唱《との》うるものが一人もあるべきはずがない。一座が無言にして沈黙の重きに圧《お》されたのは潔《いさぎよ》き同意の表白であったから、言い出した酒井賢二郎も満足して、
「御同意で忝《かたじけ》ない。ただし、これは強《し》いては申さぬこと、なおまた万死を賭《と》して中山殿の御跡《おんあと》をお慕い申してみたい者は、そのようになさるがよい、国に残る妻子眷族《さいしけんぞく》のことが気にかかるものあらば、それもまたお心任せ」
酒井賢二郎は一同を見渡して念を押すと、静まり返った中から、
「いかにも酒井氏の申さるること、道理至極、死すべき時に死せざれば死するに勝《まさ》る恥がある。今はとても中山殿のお跡を慕うこともなり難し、いわんやまた、いまさらに妻子眷族に未練《みれん》を残す者もあるまい、ここで腹を切るが最上の武士道と存ずる」
水野善之助というのがこう申し出でる。自然これが一同の意志を遺憾《いかん》なく代表したことになった時に、
「拙者一人だけは――」
ヒヤリと剃刀《かみそり》で撫でたような言葉。それはさきほどから隅の方に黙々としていた机竜之助の声でしたから、一同の眼先は箭《や》を合せたように竜之助の面《かお》に注ぐと、
「切腹は御免を蒙《こうむ》る――」
「何と言わしゃる」
「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って落ちてみるつもりじゃ」
「死にたくない?」
浪士たちの眼から電《いなずま》が発するようですけれど、竜之助の眼は少しく冴《さ》えているばかりで、その面は例の通り蒼白い。
「ふーん、死に怯《おく》れたな」
ほかの浪士は、憤激と軽蔑《けいべつ》の眼を合せて竜之助を見る。
「拙者は死にたくない」
竜之助は冷やかなもの。
「忠義を忘れたか!」
忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が最期《さいご》に似たりと浪士らは血を沸かせている間に、竜之助ばかりはどうしてもそんな気分になれないものと見えます。
「机氏」
酒井賢二郎は逸《はや》る他の連中を抑え、
「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより強《し》いて死を求むるものではない、しからばこれより落ちるなり、逃げるなり、お心任せになさるがよい、さてその他の諸君」
酒井はまた一座を見廻して、
「申し遺《のこ》すことなどもあらば、最後の思い出に書き給え」
彼等は紙と矢立《やたて》を持っていまし
前へ
次へ
全22ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング