た。
もはや、机竜之助の方は誰も相手にしなかった。竜之助が、こんなふうにつむじ曲りの人間であることは、この連中がもうよく呑込んでいるものと見えて、一旦は憤激してみたけれど、今は取合いませんでした。
竜之助は黙って、自分だけは遺書《かきおき》もしなければ辞世もつくらず、介錯《かいしゃく》をしてやろうとも言わず、もとより頼もうと言う者もありませんでした。
そのうちに、余の十人は、それぞれ辞世の詩歌、妻子へ申し遺すことなどを書いてしまいました。
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水野善之助は、二の腕の創《きず》をよく結び直しながら、
「宮の御鎧《おんよろひ》に立つ所の矢|七筋《ななすぢ》、御頬先《おんほほさき》二の御腕《おんうで》二箇所突かれさせ給ひて、血の流るること滝の如し」
朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、
「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら大盃《おにさかづき》を三度傾けさせ給へば、木寺相模《きでらさがみ》、四尺三寸の太刀の鋒《きっさき》に敵の首をさし貫いて宮の御前に畏《かしこま》り……」
木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ跳《おど》り出でて、
「戈※[#「金+延」、第3水準1−93−16]剣戟《くわえんけんげき》を降らすこと電光の如くなり、盤石《ばんじゃく》岩をとばすこと春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅《しゅら》かれがために破らると……」
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大塔宮《だいとうのみや》の昔をしのぶにはちょうどよい土地である。あの時分以来、この十津川郷には南朝忠臣の霊気が残っているはずであります。
二
猟師の惣太は、薪《たきぎ》を取りに出るふりをしてこの小舎《こや》を逃げ出してしまいました。
十津川の岸へ出て一散《いっさん》に北へと走《は》せ下る。
「やれやれ怖ろしいことじゃ、命拾いをしたようなもの。しかしこうなってみると、怖《こわ》いところにまた有難いことがある、あれを藤堂様なり紀州様なりに訴人《そにん》をすれば、莫大《ばくだい》な御褒美《ごほうび》にありつける、占《し》め占め」
もう安心と思った時分に、惣太は汗を拭きながら独言《ひとりごと》を言いました。それでも足の方は休ませずに、なおも流れに沿うて急ぎ下ると忽《たちま》ち行手で人声がする。
「や、また来やがったぞ、待てよ、敵か味方か、ここへひとつ隠れて様子を見てやれ」
岩と木立の間へ惣太は素早《すばや》く身をひそませると、流れを上ってこちらへ来るのは、都合十人ほどの武士であって、その服装のいかめしいのを見ても落武者《おちむしゃ》でないことは確かです。
「宇津木氏、その机竜之助とやらは、日頃この天誅組の一味に気脈を通じていたような形跡がありましたかな」
「いや左様なことはありませぬ、聞けば江戸へ下る途中、伊賀の上野にて、これらの浪士の一行に加わり、それより吉野へ出で、いったん浪花《なにわ》へ入って、それからまた出直してこの旗上げに加わったように見えまする」
一行の中の大将分と見えるのと話をしているのは宇津木兵馬でありました。
藤堂の討手《うって》で藤井新八郎というのがこの大将分で、兵馬はその手に加わって、今この山奥深くたずね入り来《きた》ったのは、たしかに鷲家口から逃れた一隊の浪士の中に机竜之助がいると見定めたからであります。藤井新八郎は頷《うなず》いて、
「この山中へ追い込めばもはや袋の鼠である、いずれへ行っても紀州領、帰れば我々の追手が十重二十重《とえはたえ》、山中に永く迷いおれば食糧はなし」
こういったような話をしてこの一隊が、心して川の岸を進んで行った時に、
「申し上げます、もしあなた様方は紀州様でございますか、藤堂様でございますか、申し上げます」
岩蔭から転《ころ》がり出した猟師の惣太。一行は屹《きっ》と足をとどめて、従卒は鉄砲の筒を向けてみましたが、用心するほどの者ではない、賤《いや》しげな木樵《きこり》山がつの類《たぐい》がたった一人。
「その方は何者じゃ」
「猟師でございます、惣太という猟師でございますが、ただいま悪者を見つけましたから御注進申し上げます、ただいま、私共の山小舎《やまごや》へ都合十一人の浪人者が舞い込みましたのでございます」
「ナニ、十一人の浪人?」
「ええ、ただいま、酒を呑み、肉を食って休んでおります」
「よく訴人した、案内せよ」
惣太を先に打立たせ、やがてその山小舎のあたりへ来た時分に、前後の様子を篤《とく》と見定めた藤井新八郎は、
「惣太」
「へえ」
「気の毒だが、その方の小舎へ火をつけてくれまいか」
「焼くのでございますか」
「そうじゃ、あとで不服のないように普請《ふしん》をして取らせる」
「よろしゅうござ
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