だ八町ほどある、そこへ行くまでに大師堂を左にと下れば御禊《みそぎ》の滝があるのであります。
 大した滝ではありません。幅が五寸に高さが二丈もあるか、それが岩の間から落ちて一|泓《おう》の池となり、池のほとりには弁財天の小さな祠《ほこら》があって、そのわきの細いところから、こっそりと逃げて水は日高川へ落ちる。この池を御禊の池といって、椎《しい》の木が二本、門柱でもあるかのように前に立って、それに注連《しめ》が張り渡してありました。護摩壇《ごまだん》へ懺悔《ざんげ》に行くものは、きっとここの滝へ来て、まず水垢離《みずごり》をとるのが習わしでありました。
 それでお豊は、すぐに修験者のいる護摩壇へは行かないで、その大師堂を左にと御禊の滝まで来かかったわけでありましょう。
 月もあるにはある、夜も更けたわけではない。それでも、このところ、この道は決して気味のよいものではありませんでした――草叢《くさむら》でガサと音がする、木の間でバサと音がする。お豊は、もう一歩も歩けないように足をとめたことが幾度《いくたび》、それでも早や、滝壺に近いところまで来ていました。檜笠作りの六助の口占《くちうら》を引いて、よく聞いておいたこと――懺悔する前には、水垢離の必要がある、護摩壇へ行く前には、御禊の池をおとずれねばならぬ。
 お豊は、その通りにここまで来てみると、もうかなり勇気が出て、注連《しめ》を張った木に手をおいて、中をのぞぎ込んでは四辺《あたり》を見廻してみました。
 人に見られてはいけぬ、人に見せるべきものではない――しかし、そんな心配はてんで無用、ここへは決して人が来ないのである。
 お豊は滝の傍へ進んで、かの水が日高川へ逃げて行く弁財天の小さな祠《ほこら》へ来て、その前で手を合せた。それから静かに自分の締めていた帯を解きかかる。クルクルと帯を解いたが、さて、それを置くべきところがない、草の葉も木の葉も、じめじめと水気がたっぷりで、地の上にも水が滲《にじ》む。お豊はちょっと当惑したが、すぐに気のついたのは、弁財天の祠の土台のところから根を張って、ほとんど樹身の三分の二を水の方へさし出した一幹《ひともと》の柳でありました。その柳の、ちょうど程よい枝ぶりのところへ帯をかけて……それから着物と襦袢《じゅばん》とを一度に……脱ぎかけると、お豊は自分の肌の半身が誰もいない闇の中で、あまりに白かったのに怖れたようでありました。思い切って水に浸《つか》っているうちに、不思議なもので、お豊は何とも知れない心強さを感じてくるのであります――この冷たい水の中に、尤《もっと》もまだ秋のはじめで、水が苦になる時でないとはいえ、今までの怖ろしかった心が、だんだんに消えて行って、水の肌に滲《し》み込む気持が何とも言えぬ清々《すがすが》しさになってゆくのでありました。
 頭の中で、ごっちゃになっていた血の筋が、一すじずつに解けて、すんなりと下にさがって来る、いつまでもこの水につかっていたい――こんな気持になるくらいですから、頭の上の木の梢《こずえ》で怪しげな鳥が啼《な》こうとも、滝の水が横にしぶいて頭までかかろうとも、とんと気のつかないくらいにまで心が鎮まってゆきました。
 こうして後、森の中の修験者へ行って逐一《ちくいち》にその身の上を語る。雲のことを語る。そうすれば自分は生れ更《かわ》った身になれることのように思われてきました。
 その時分、この滝壺へ、また左の方のきわめて細い道、この道を伝わって行っても護摩壇へは行けるのであるが、これはここに籠る修験者のほか滅多《めった》に通わない細道から、こちらへ徐々《そろそろ》と下りて来る者がありました。
 白衣《びゃくえ》を着ていることが闇でもよくわかるから、人間には相違ないが、暗い中を手さぐりで、ようようとこっちの方へ向いて来ます。
 そうして、前の弁財天の傍《かたわら》の、ごく細い道のところまで辿《たど》って来たのを、よく見ると、手には何やら杖をついて、面は六部《ろくぶ》のような深い笠でかくし、着物は修験者が着る白衣の、それもそんなに新しいものではないこともわかります。
 この人は、やっと細道を辿って来たのが、ここはやや平らになったので、杖で行手をさぐりさぐり歩みはじめました。
 お豊は、この時も一心ですから、少しもこの人に気がつきませんでした。

         七

 歩んで来た白衣の人は、しばらく、弁財天の小祠《ほこら》の傍に棒のように突立っていました。
 闇の中に白衣ですから、うすら鮮《あざ》やかというほどによくわかります。
「あれ――」
 ようやくに気のついたお豊は狼狽《ろうばい》しました。
「誰かいる――」
 白衣の人は、ほとんど聞えぬくらいの小さな声で呟《つぶや》きました。
 してみると、今までお豊がここ
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