……それをいちばん初めに見た者が、あの竜神様へお告げ申して、お祈りをする、それを隠してでもいようものなら、その人には、きっと清姫様の怨霊がたたって、生きながら蛇になる」
「そんなことがあるものでしょうか」
「あるかないか、昔からの言い伝えじゃ。お内儀《かみ》さん、お前さんもこの土地に居着《いつ》きなさるものなら、よく覚えておおきなさい、鉾尖ヶ岳から白馬ヶ岳まで一筋の雲……」
六
竜神の社《やしろ》の石段は、数えてみると九十八級あります。
幅が狭いだけに勾配《こうばい》が急に見える。別に女坂というのはないのですから、お豊はこの石段の上に立って見上げていると、十日ほどの月影が杉の木の間を洩れて、木《こ》の下闇《したやみ》では虫が鳴く。
「おや、お豊ではないか」
「まあ、金蔵さん」
金蔵は旅の姿である、今どこからか帰って来たばかりである。そうしてここへ通りかかったものであります。
「お前、一人でどこへ行くのじゃ」
「竜神さまへ参詣に参りました」
「なんと思って、こんな夜分――まあ信心はどうでもよい、わしと一緒に帰ろう」
「はい……あの」
「お前を喜ばせようと思って、これこの通り和歌山の御城下から、お土産《みやげ》を買い込んで来たわい、さあ、早く一緒に帰りましょう」
金蔵には恋女房である、この女一人を喜ばさんがためにはどんなことでもする、土産をひろげて女の喜ぶ面《かお》を早く見たい。手をとって連れて帰ろうとするのにも無理はない。
「金蔵さん……」
「何だ」
「わたし、この竜神さまへ心願をかけましたから、どうぞ、参詣をさして下さい」
「心願をかけたと……何か願いがあるのかい、何か不足があるのかい」
「いいえ、そういうわけではありませんけれど、急に信心ごころが出ました」
「そうかい、せっかくの信心ごころを止《と》めても悪かろう。それでは、わしも一緒に行こう、ついでだから、一緒にこの竜神さまへ上って拝んで行きましょう」
金蔵は何でもお豊の言う通りです。
「けれども金蔵さん、神仏への信心は、ついででは罰が当ります、わたし一人で参りますから」
「なるほど、ついでの信心ごころはよくないかな。それでは、お前の拝むのを傍で見ていよう。さ、手をお出し、手を引いてこの石段を上らせて上げよう」
金蔵は手をとって、お豊を引き上げてやろうとするのです。
「ようございますよ、わたしは一人で参詣をして参ります、人に助けてもらっては信心になりませぬ」
「それもそうだ。それでは、わしはここで待っていよう。早く、いや、ゆっくりでもよい、お前の思い通り信心をしてくるがよい、夜明けまででも、わしはここで待っている」
金蔵は、旗幟《はたのぼり》を立てる大きな石の柱の下にうずくまって、振分《ふりわ》けの荷物を膝の上に取下ろし、お豊の面をさも嬉しそうに見ています。
「そんなら、待っていて下さい、御参詣をして参ります」
お豊は石段をカタカタと踏んで竜神の社へのぼり行く。金蔵は我を忘れて見上げ見恍《みと》れていました。
竜神の社には八大竜王のうち、難陀竜王《なんだりゅうおう》が祀《まつ》ってあります。
こんな山奥に竜神を祀ることが、奇妙といえば奇妙である――今を去ること幾百年の昔、この地に竜神|和泉守《いずみのかみ》という豪族が住んでいた。その屋敷跡は、今もあるということであります。
竜神の姓はその人以前からあったものか、その人が来て、竜神の社の名によってその姓をつけたものか、その辺はハッキリしません。ハッキリしないところに竜神の秘密がいろいろと附け加えられました。
八大竜王の八という数が、ちょうどこの竜神村の字《あざ》の数と同じことになる、そうして、この湯本《ゆもと》の竜王社には王の中の王たる難陀竜王を祀ってある、野垣内《のがい》、湯の野、大熊、殿垣内《とのがい》、小森、五百原《いおはら》、高水《こうすい》の七所に、あとの僧鉢羅竜王《そうばちらりゅうおう》までが一つずつ潜《ひそ》んでいるということでありました。
天にもし清姫の帯が現われた時は、遠からずこの八つの竜王が、八所の谷から、悉《ことごと》く荒《あば》れ出して、雲を呼び雨を降らす――さればこそ竜神の社は、竜神村八所の鎮《しず》めの神で、そこに籠《こも》る修験者《しゅげんじゃ》に人間以上の力があり、一村の安否の鍵がそこに預けられてあるように信ぜられているのであります。
お豊は事実、清姫の帯を見た――聞いてみれば怖ろしいことである。どうやらその怖ろしいものを見たのは、自分一人だけであるらしい。
お豊が今ここへやって来たのは、その修験者に向って、自分の見たところを逐一《ちくいち》白状するつもりであることに疑いはないのです。
修験者のいる所は本社の右手の高い森の中で、そこまではま
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