にいたことは気がつかなかったので、お豊が狼狽《あわ》てて着物をとりかかろうとしたから、はじめて人のここにいることを感づいたらしいのです。
「誰かいる――」
と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて徐《しず》かに大師堂の方へ小道を辿って行きます。
 お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の襟《えり》を直してその人の後ろ影を見送るのでありましたが、やっぱり、これはこの山に住む修験者か山伏のなかの一人――自分が今たずねて行こうとする修験者のお弟子かも知れぬ、或いはその修験者かも知れぬ。只人《ただびと》ではない、里の人でないにきまっているけれど、それにしても困ったことであります。
「水垢離《みずごり》の現場を人に見られたら、その功力《くりき》が亡びる」
 これは、やっぱり六助がそう言った。
 そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを睨《にら》まえて歯噛《はが》みをしたのでした。水につかっていた時の心強さも清々《すがすが》しさも無残に塗りつぶされた業《ごう》のつきない身体《からだ》。清浄に返る懺悔を妨げに来た天魔と、白衣の人を、お豊としては怖ろしいほどの形相《ぎょうそう》で見つめていると、気のせいか、その笠から洩れる背丈《せたけ》、恰好《かっこう》、ことに肩つきや、身の聳《そび》え、たしかに覚えのある姿であります。
 この時、お豊の頭脳《あたま》のなかにきらめ[#「きらめ」に傍点]いたものは、ほかでもない人相書。あの人相書のことを忘れていたのは、いま水につかっていた間ぐらいのものです。
 その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として醒《さ》め来《きた》ったお豊の眼に展開さるるは机竜之助。いや、机竜之助の名は知らない、その変名の吉田竜太郎で、頭蓋《あたま》の上から踵《かかと》の下まで貫くほどに覚えている。
 お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、
「もし――」
「ナニ……」
 先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。
「あの、あなた様は……」
 お豊は、白衣の人の突いた杖にすがるほどに近寄って、下から笠の中をのぞき込むくらいに見ましたが、
「護摩壇《ごまだん》の修験者様ではござりませぬか」
 吉田とも竜太郎ともたずねてみなかったのは、もう一ぺん、声音《こえ》を聞いてみたかったからです。
「いいや、修験者ではない」
 もう充分である、修験者でなくてもよい、誰でなくても、その声の持主であればよいのである。
「それでは、あの吉田様……」
「吉田?」
 かぶっていた笠がこころもち揺《ゆら》ぎます。
「竜太郎様――」
「竜太郎?」
「あの三輪の植田丹後守様においでになった――」
「三輪の植田丹後守?」
「間違いはござんすまい」
 お豊は、その白衣の袂《たもと》に縋《すが》らんばかりに取付いたのでしたが、白衣の人は動かず。
「違う、拙者は吉田竜太郎とやら、そんな人は知らぬ」
「まあ、知らぬとおっしゃいますか――」
 疑うべからざるものを疑う、お豊は、しばし取付端《とりつきば》に迷いました。
「そなたは女子《おなご》のようじゃが、誰じゃ、どなたでござる」
「お忘れになりましたか、豊でございます。三輪の薬屋におりました……」
「豊……お豊……」
 白衣の人の姿勢はこの時くずれた。
「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」
「ああ、左様でござんしたか」
 お豊は、その人にすがりつくように身をその足許《あしもと》に投げたのを、白衣の人、すなわち机竜之助は、徐《しず》かにその手で受けたが、二人が面《かお》を見合すべく、木《こ》の下闇《したやみ》は暗いし、よし日と月がかがやき渡っても、竜之助はおそらく昔の眼でこの女を見ることはできまい。
「まあ、あなたは……」
 お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。
 竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、遽《にわ》かに振り放つようにして、
「危ない、このまま別れよう」
 背を向けて、そうして杖で徐《しず》かに地を叩いて歩み出そうとします。
「どうぞ、お待ち下さい」
 お豊は、あわててその袂を捉《とら》えて、
「なぜ、そのように情《つれ》なくなさいます、あなた様のお身の上もお聞き申さねばならず、私の身の上もお話し申し上げねばなりませぬ」
 それでも竜之助は振返らない。
「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊
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