人が提灯《ちょうちん》をつけて入って来て、
「今晩は、どうもはや、度々お騒がせ申してお気の毒だが、お内儀《かみ》さん、このお方のお宿をひとつ」
後ろを顧みて老人は、
「十津川からお越しのお武家様でござります」
お豊は愛想《あいそ》よく、
「はい、よろしゅうございますとも、どうぞこれへ」
「さあ、お武家様、どうぞこれへお入り下さいまして」
老人が丁寧に案内すると、
「御免」
と言って入って来たのは、太刀を横たえ、陣羽織をつけた厳《いか》めしい身ごしらえですけれども、歳はまだよほど若いように見えます。
「あの、これは藤堂様の御家中《ごかちゅう》でな、どうか御粗相《ごそそう》のないように」
「見苦しいところでございまして、それにこんな山家《やまが》のことでございますから行届き兼ねまするが、どうぞごゆっくりお泊りを願いまする……お鶴や、お鶴さん」
お豊は入って来た武士のために敷物を取ってすすめながら、女中を呼び、
「お洗足《すすぎ》を差上げ申して、それからあの、お食事を」
「いや、食事はもう済みました、湯に入れてもらい、直ぐに休むと致しましょう」
若い武士は上《あが》り端《はな》に腰かけて草鞋《わらじ》の紐を解く。
「お内儀さん、金蔵どのはまだ帰らぬかな、えらい永逗留《ながとうりゅう》じゃ」
「まだ二三日は、帰るまいと思われますのでございます」
「そうか。なにしろ近国では、あのような騒ぎ故、早く帰ってくれないと困る」
「左様でございます」
「では、お頼み申しましたよ。それから、あのな、御如才《ごじょさい》もあるまいが、先刻《さっき》の人相書、あれはよくよく気をつけてな、何の遠慮はいらぬから、怪しいのが見えたら、早速、わしがところなり組合の衆なりへ申し出てもらいたい……いや、こちらのこのお武家様に直接《じか》に申し上げてもよろしい、頼みましたぞよ」
「ええもう、委細承知致しました」
この時、若い侍は草鞋を解き足を洗い終る。
「さあ、どうぞ、これへ」
お豊は、さきに立って案内する時、いままでは蔭であった行燈の光でよく見れば、まだ前髪立ちの少年で、これは申すまでもなく宇津木兵馬でありますけれど、お豊は、まだこの人には近づきがなかったのであります。
四
温泉寺の鐘が九ツを打つ。
兵馬は、いま枕について、まず頭にうつるものは、いま自分を案内してくれたこの宿屋の若い女房のことでありました。思いなしか、自分がいったん姉と慕ったお浜の面《おも》ざしにそっくりです。お浜は憎むべき女である。兄の身にとっては、竜之助よりはお浜の方がいっそう罪が重いかも知れぬ――竜之助を憎む兵馬には、お浜はなお悪いものでなければならぬはずですけれど、兵馬にはそれが心から憎くなれないのです。故郷へ帰った時は、よく世話をしてくれて、江戸にいる時は着物を送ってくれたり、土地のみやげを送ってくれたり、よく修行してえらい人になってくれと励ましてくれたこともある。芝の松原で、惨《むご》たらしい殺され方を見た時、その遺書《かきおき》を繰返して見た時、不貞の女の当然の報いを眼前に見せられても、なおその女が憎いとは兵馬には思えないで、やっぱり親切な姉の気持が離れないのでありました。
兄の無念を思いやって、歯を咬《か》み鳴らす時も、嫂《あによめ》の面影は、やっぱり優しい人にうつる。竜之助を憎み悪《にく》む心が火のように燃えても、お浜を慕わしく哀れに思う心は消えないのです。
兵馬は純良な少年である――まだ世の塵《ちり》にけがれない真白い頭へうつった優しい人の影は、消して消せない、あんな気立てのよい姉上が、なんと心が狂って、竜之助のような奴に欺《だま》されたことだ。
取返しがつかない、悔やんでも及ばない。兵馬は、これが浅ましくてたまらないのです。憎い者の罪は憎めるけれど、憎めない者の犯した罪はどう憎んでよいかわからぬ。兵馬は常にお浜のために、その罪を憎まんとしてかえってその人のために泣きたくなるのです。
兵馬には、女の心の浅ましさがわからない。けれども要するに、自分の身の廻りの言わん方なき苦しき紛紜《ふんうん》は、一《いつ》にお浜の心から来ていると、思えば思えるのである。人の一念こそ真に怖るべし、ちょっとした心の狂いは、無限に糸を引いて、それからそれとからみつくものである、その人が亡くなったとて、その一念の糸はなくなるものでない。
今、自分の枕元へ丸い行燈を据《す》えて、燈心を程よく掻《か》きなして行ってくれたこの宿の若い女房の姿を思い浮べると、胸から乳へかけて真白な肌に血のかたまりが!
そんなものがあるわけはないが、兵馬は、あの芝の松原の、お浜の酷《ひど》い殺され方を思いやって身の毛が竦《よだ》つのでありました。
竜神村の夜は静かで、犬も煩悩
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