《ぼんのう》を忘れて眠るのに、兵馬は思いに募《つの》ることばかり。
お豊は兵馬を二階の座敷へ案内して、廊下を渡って来ましたが、かの人相書のことがどうも気になってならぬ。
帰りがけに、梯子《はしご》わきの戸締りがほんとうでないから、ちょっと手をかけてみたが容易《たやす》くは動かないので、一旦あけ直して見ると、眼の下は、夜に眠る温泉村。
夜更けての温泉村の風景は、土地に住み慣れた人をさえうっとり[#「うっとり」に傍点]させる。今は草木も眠る丑三時《うしみつどき》、竜神八所に立籠めた水蒸気はうすものの精が迷うているようであります。
なんの気もなく空を見れば、鉾尖《ほこさき》ヶ岳《たけ》と白馬《しらま》ヶ岳《たけ》との間に、やや赤味を帯びた雲が一流れ、切れてはつづき、つづいては切れて、ほかの大空はいっぱいに金砂子《きんすなご》を蒔《ま》いた星の夜でありました。
東から西に流れる雲、或いは西から東へ流れる雲。それが細長くつづきさえすれば、赤であっても、白であっても、ほかのどんな色でも、色合いにはかまわず、土地の人は一体にそれを「清姫《きよひめ》の帯」と呼びます。
いま、お豊が見たのも、その「清姫の帯」であって、牟婁郡《むろごおり》から来て有田郡《ありたごおり》の方へ流れているのであります。
お豊は、この土地へ来て、「清姫の帯」を見るのはこれがはじめてですから、ただ、まあ珍らしく細長い雲と思ったばかりですけれども、もしこの土地に永く住み慣れた人ならば、面《かお》の色を変えて、戸を立て切り、明朝《あす》とも言わずに竜神の社へ駈けつけて、祈祷《きとう》と護摩《ごま》とを頼むに相違ないのであります。
ことに、東、鉾尖ヶ岳から、西、白馬ヶ岳までつづく「清姫の帯」は、土地の人にいちばん怖れられています。
三年に一度あるか、五年に一度あるか、とにかく、「清姫の帯」が現われることはあっても、この二つの山までつづくということは滅多《めった》になく、もしそれがあった日には、土地の人は総出で竜神の社へ集まり、お祓《はら》いをし、物忌《ものい》みをし、重い謹慎をして畏《おそ》れる。最初にそれを見つけた人は、その歳のうちに生命《いのち》にかかわる災難があるのだということでありました。
今、土地の人はみんな眠っている。おそらくこれを見たのは、お豊一人であろう――お豊の、そんな言い伝えを知らないことは、この村の今夜のためには平和である。しかし実際は、同じ夜の同じ時に、この怪しい雲を見た者が、この竜神村においてお豊のほかに、まだ一人あるにはあったのであります。
その晩、お豊のほかに「清姫の帯」を見たものというのは、ほかではない、この竜神の社に籠る修験者《しゅげんじゃ》でありました。
この修験者は、三年ほど前から、ここへ来ていました。それがお豊と同じ時刻に水を浴びて、護摩壇《ごまだん》へ戻る時に、ちょうど、この「清姫の帯」を見たのであります。
竜神の社があるところは、お豊のいる温泉場よりずっと高い――修験者は雲の起るところから終るところを仔細《しさい》にながめて、その雲がいずれへ流れていずれで消えるかをまでよく見ておいて、それから眼の下に群がる竜神の温泉場を見下ろしたのであります。
日高川の源《みなもと》が社の下を蜒《うね》って流れて、村の谷間《たにあい》をかくれて行く。小半時《こはんとき》も村の方を見下ろしていたが、村では別に誰も騒ぐものがない。それで、修験者は扉をあけて社の中へ入ってしまいます。お豊は、もうずっと前に戸を締めてしまいました。
修験者が扉をあけて社の中へ身を隠してしまった時分には「清姫の帯」は全く消えて、わずかに切れぎれになった笠ほどのが三つばかり、白馬ヶ岳の上あたりに漂《ただよ》うのみでした。
仮りにこの「清姫の帯」を、お豊でないほかの村の人が見たことならば、それこそ大騒ぎで、さきの修験者が小半時も村の方を見下ろしていた時分に、ほとんど総出で、この社へつめかけて来ねばならぬはずのところを、今まで来ないくらいだから、誰も見た者はないにきまっています。
そうすれば、誰も知らない間に、怖ろしい災禍《わざわい》がこの竜神村を襲うて来るに違いない。その災禍の来ない前に、その災禍を鎮《しず》める力のあるように信ぜられているのは、この竜神の社の修験者であります。
修験者は、村の人に頼まるれば、村の人のためにあらたかな修法《しゅほう》をして、風か雨か、火か水か、とにかく、来《きた》るべき災禍を鎮めてやるに違いないのだけれど、困ったことには、いくら修験者にその力があっても、それを最初に見た村の人から頼みに来なければその法のききめがないということでありました。
さあ、伝説が真実であったら、この村の頭の上に大悪魔が手を出しているわけ
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