それを心配して空に向って徒《いたず》らに吠えているのかとも思われます。
「犬が吠えてますなあ」
「そうでございます、よく吠えますなあ」
上方《かみがた》の客と見える頭の禿《は》げた隠居と、和歌山あたりの商人《あきんど》と見えるのと、二人で湯槽《ゆぶね》の中で話していました。
竜神村は、日高川の源、山と山との間、東西二里、南北五里がほどに二三十町ずつを隔てて、八カ所に家がある。その八カ所のうちのここは湯本といって、温泉宿が今では十九軒もある。その十九軒のうちの室町屋《むろまちや》というのが、この家でありました。
もう少したつと客がドッと多くなるが、今のところは、夏と秋との移り変りであるのと、近国に戦乱があるのと、そんなこんなであまり客はないのです。
「まだ吠えてますなあ」
「あちらでも、こちらでも、吠え立ておるわい、どうしたものじゃろう」
二人の客は湯槽から這い上って、隠居の方は軽石で踵《かかと》をこすりながら、
「何か、悪い獣が山から出てうせはせんかな、狼か、山犬か、猪《しし》かむじな[#「むじな」に傍点]か」
「近頃は、トンと左様な噂《うわさ》も聞きませぬ。なんにしても、こう吠えられては物騒《ぶっそう》でなりませんな」
二人が犬の吠えるのを頻《しき》りに気にしていると、浴室の戸をガタと開いて、一人の女中が面《かお》を出し、
「もし、お客様、恐れ入りますが、急にお湯をお上りなすってくださいまし、あの、お調べのお役人が参りましたから」
「ナニ、お調べのお役人が――」
二人は面を見合せて、
「わしらは、別に調べられるような筋はごわせんが……」
湯から上って、もう寝ようとする今時分に事改めて、調べの役人が向うなどとは、今までに例のないことで気味の悪い話です。二人は面を見合せて、
「何でごわすな、いったいお調べというは」
「はい、あの十津川筋とやらから、こちらへ悪者が落ちて参りましたそうで、それがため夜中《やちゅう》のお調べでございます」
「ああ、天誅組の落人《おちうど》か」
犬の遠吠えもそれでわかった。
この晩、調べに来た役人というのは仰々《ぎょうぎょう》しいものでありました。いずれも物の具に身を固めた兵士《つわもの》で、十津川から来たものと、紀州家の兵とが一緒になって、竜神村へ逃げ込んだ天誅組の余類《よるい》を探そうというのであります。
それがために、温泉宿とお客とは大迷惑で、入浴中を引き出されたり寝込みを叩き起されたり――それが引取ってしまうと、大風の吹いたあとのように、胸を撫《な》で卸《おろ》しながら床について、やがて、犬の吠えるのも静まり返った時分のことであります。室町屋の帳場で帳合《ちょうあい》をしていたこの家の若い女房――まだ眉を落さないが、よく見れば、それは、二月ほど前に、初瀬河原から藍玉屋の金蔵につれられて逃げたお豊であることは意外のようで、実は意外でも何でもありません。してみれば、ここはいつぞや金蔵が話した通り、その親たちがはじめた温泉宿である。金蔵は今も見えないし、役人の来た時も出て来なかったから、たぶん不在《るす》なのでありましょう。
お豊がこうして帳場へ納まっているからには、もう相場がきまったものと見てよろしい――お豊は帳合をしてしまうと、行燈《あんどん》の火影《ほかげ》に疲れた眼をやって、ホッと息をつきましたが、すぐにまた帳場のわきへ置いた人相書に眼がつきます。さきの役人が置いて行った人相書――もし、これに似た客が来たら遠慮なく申し出でろ、人違いでも咎《とが》めはないが、届けを怠ると重い罪だと厳《きび》しく申し渡されたものであります。ざっと見て捨てておいたのを、仕事が済んで、また取り上げて、はじめから読んでみます。
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「年齢三十三四――
痩形《やせがた》の方、身の丈《たけ》尋常、
顔色蒼白く、
鼻筋通り、
眼は長く切れて……白き光あり……」
お豊はハッとしたのでありましたが、
「甲源一刀流の達人――」
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「あ!」
人相書を持った手が顫《ふる》えたようでしたが、さきに飛ばして読んだ名前のところへ、ひたと眼が舞いもどる。
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「元新撰組――机竜之助」
[#ここで字下げ終わり]
机竜之助……これでよかった。違う。しかし気にかかるは竜という文字……お豊の胸には急に熱鉄が流れるのでありました。
また犬が吠えて、この家の前で足音が止まる。
いま締めたばかりの表の戸をトントンと叩いて、
「もしもし、室町屋さん」
「はい」
お豊は返事をする。
「済みません、夜更けになって」
殿貝《とのがい》というこの温泉村の世話役の声でありますから、
「ただいまあけますから」
あいにく誰もいなかったから、お豊が立って戸をあけると、殿貝老
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