らを向きましたが、竜之助を見ると泣きそうな面をして、
「怖《こわ》い人――あそこに怖い人がいる」
 指《ゆびさ》して示すと、抱いていた肥った男は慈愛にかがやく面をこちらに向けて、
「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」
「嘘だ!」
 子供は、どうしても承知しません。
「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」
「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」
「父親《てておや》のない子があるものか……坊やにも、お父さんもあれば、お母さんもあるだよ」
「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」
「それはなあ……」
「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」
「うむうむ、つれて行くとも」
 抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の面《かお》を向けて、あちらへ行ってしまおうとするから、
「与八――」
 竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。
「与八――待ってくれ」
 足が動かない――
「与八――郁太郎」
 声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、光明《こうみょう》の雲が、あたりいっぱいにかがやく。
「与八――郁太郎」
 咽喉《のど》が裂けたと思われる時に、夢は覚めた――眠っていた時にありありと見えた人の面が、覚めては見えない。

「誰だ、そこへ来たのは何者だ!」
 修験者の地を突《つ》き貫《ぬ》くような叫び。竜之助は何事が起ったのかと思う――誰かこの夜中に、ここへ来たものがあるらしい。雨も風も歇《や》みはしないのに。

         十

「誰だい、誰だい――おお痛っ」
 金蔵は、しばらく起き上れないで、腰のあたりをさすると、兵馬は丁寧に介抱《かいほう》して、
「お怪我《けが》はないか」
「いや、もう大丈夫。お前さんは……お豊ではなかったね」
 起き上れないうちから、もうお豊のことです。
 兵馬は傘《かさ》を拾ってやると、金蔵は立ち上って面をしかめ、
「これはどうも――ナニ、もう大丈夫でございます」
 お礼もろくろくに述べず、傘を受取ってまたも石段をめがけて上りはじめようとしたが、
「あの、もし、あなた様、この社《やしろ》の中で女の姿をお見かけになりませんでしたか」
「女の姿を?」
「はい、この室町屋の女房のお豊という女を」
「ああ、お豊どのならば」
「は
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