……」
「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、拙者《わし》が里まで連れて行って上げよう、さ、おじさんに抱かれてみろ」
「いやだ、おじさんは怖《こわ》い」
「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」
「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」
「嫌い? では誰がよいのじゃ」
「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」
「ナニ、与八さん?」
竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。
「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」
「坊の名は郁太郎《いくたろう》……」
「ナニ、郁太郎?」
竜之助は摺《す》り寄って、子供の面《かお》に当てた紅葉《もみじ》のような手を振り払ってその面を覗《のぞ》き込もうとすると、
「いや! いや!」
子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。
「お待ち……坊や、お待ち……」
竜之助はそのあとを追いかけて、
「郁太郎……お前の父親はここにいる」
竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、
「嘘《うそ》! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」
小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
憐《あわ》れむべし、この子、己《おの》れが実の親を厭《いと》うて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。
竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方《かた》を見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。
「おうい、郁坊やあい」
その声は田舎訛《いなかなま》りの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、
「与八さあん――」
父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐《なつ》かしさでこの太った男に抱きついてしまいました。
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
温かい手で、すぐ抱き取って、頬《ほお》ずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光《ごこう》がさして来るようです。泣いていた子供も晴々《はればれ》して、ふいとこち
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