どの、お前の身も」
 相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の腸《はらわた》に沁《し》み込むようです。
「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」
「うむ――」
「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」
「…………」
「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」
「それが、どうして知れた」
「もう、人相書が廻っておりまする」
「人相書が?」
「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」
「それ故、あぶないと申すのじゃ」
 竜之助はまた杖を取り直します。
「まあ、待って下さい」
 お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、
「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して覘《ねら》っているお方がありまする」
「兄の仇? そんなことは……」
 なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、
「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」
「江戸へ逃げたい?」
 竜之助の面《かお》の表情は、笠でまるきり知れないけれども、その声は、キリキリと厚い氷を錐《きり》で揉《も》み込むような鋭い嘲《あざけ》りをも含んでいるのであります。
「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」
「ええ……」
 お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、先《せん》を打たれて驚き且《か》つ狼狽しました。
「それは余儀ない事情でございます……」
「余儀ない事情?」
「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」
「わからぬ」
「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」
 お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、
「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございま
前へ 次へ
全43ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング