にいたことは気がつかなかったので、お豊が狼狽《あわ》てて着物をとりかかろうとしたから、はじめて人のここにいることを感づいたらしいのです。
「誰かいる――」
と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて徐《しず》かに大師堂の方へ小道を辿って行きます。
 お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の襟《えり》を直してその人の後ろ影を見送るのでありましたが、やっぱり、これはこの山に住む修験者か山伏のなかの一人――自分が今たずねて行こうとする修験者のお弟子かも知れぬ、或いはその修験者かも知れぬ。只人《ただびと》ではない、里の人でないにきまっているけれど、それにしても困ったことであります。
「水垢離《みずごり》の現場を人に見られたら、その功力《くりき》が亡びる」
 これは、やっぱり六助がそう言った。
 そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを睨《にら》まえて歯噛《はが》みをしたのでした。水につかっていた時の心強さも清々《すがすが》しさも無残に塗りつぶされた業《ごう》のつきない身体《からだ》。清浄に返る懺悔を妨げに来た天魔と、白衣の人を、お豊としては怖ろしいほどの形相《ぎょうそう》で見つめていると、気のせいか、その笠から洩れる背丈《せたけ》、恰好《かっこう》、ことに肩つきや、身の聳《そび》え、たしかに覚えのある姿であります。
 この時、お豊の頭脳《あたま》のなかにきらめ[#「きらめ」に傍点]いたものは、ほかでもない人相書。あの人相書のことを忘れていたのは、いま水につかっていた間ぐらいのものです。
 その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として醒《さ》め来《きた》ったお豊の眼に展開さるるは机竜之助。いや、机竜之助の名は知らない、その変名の吉田竜太郎で、頭蓋《あたま》の上から踵《かかと》の下まで貫くほどに覚えている。
 お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、
「もし――」
「ナニ……」
 先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。
「あの、あなた様は……」
 お豊は、白衣の人の
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