「なるほど」
 六助の物語に拍子《ひょうし》を入れるのは、例の駕丁《かごや》の松であります。
「その庄司のお嬢様を清姫という――一説にはお嬢様ではない、まだ水々しい若い綺麗《きれい》な後家《ごけ》さんであったとも申します」
「お嬢様と後家さんでは少し違う」
「なにしろ、人皇《にんのう》第六十代|醍醐《だいご》天皇様の御世《みよ》の出来事だから、人別《にんべつ》のところに少しの狂いはあるかも知れないけれども、どっちにしても綺麗な女の方に間違いはない。さてここに、鞍馬寺《くらまでら》の山伏《やまぶし》で安珍《あんちん》というのがあった」
「安珍――清姫」
「その安珍がまた、山伏のくせにばかに好い男なのだ、そうして熊野|参詣《さんけい》の道すがら、清姫様のところで一夜の宿を借りたと思いなさい」
「それが間違いのもとだ」
「清姫様が、スッカリこの安珍殿に打込んでしまいなすった。さあ、そこが紀州女の執念で、食いついたら放すことじゃない」
「やれやれ」
「ところが、その安珍殿というのが、この上なしの野暮《やぼ》で、一向《いっこう》お感じがない、感じないわけでもあるまいが、そこは信心堅固の山伏だ、仏法の手前があるから逃げる、姫様は離れない、寝るから起きるまで、食付《くいつ》き通しで離れない」
「それは大変だ」
「そこで、安珍殿も弱りきって、ぜひなく、清姫様を諭《さと》して言うことには、わしはこれから熊野権現《くまのごんげん》へ行く身だから穢《けが》れてはならぬ、その代り帰りには、きっとお前の望みを叶《かな》えて上げるから、日数《ひかず》を数えて待っていて下さいと」
「なるほど」
「そうしておいて安珍殿は熊野へ参詣を済まし、その帰りには、この家の前を笠で面《かお》を隠して、素早《すばや》く通りぬけてしまった」
「泊ればよかったに」
「清姫様は蔭膳《かげぜん》を据《す》えて待ちに待ち焦《こが》れておいでなさるが、日限《ひぎり》がたっても安珍殿の姿が見えない、気が気ではない、門前を通る熊野帰りの旅僧にたずねてみると、その人ならば、もう二日も前にここを通り過ぎたはずだと教えられて髪の毛がニューッと逆さに立った」
「うむ、うむ」
「角が二本……雪の膚《はだえ》にはみるみる鱗《うろこ》が生えて、丹花《たんか》の唇は耳まで裂けた」
「鬼になった、蛇になった」
「角が生えた、毛が生えた」
「そう
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