して、この日高郡をめざして一散《いっさん》に安珍殿を追いかけたものだ」
「なるほど」
「それから安珍殿が、道成寺の大鐘の下へかくされる、追っかけて来た清姫様は、もうこの時は本当の蛇におなりなすった、鐘のまわりをキリキリと巻き上げて、尾でもって鐘を敲《たた》くと、炎《ほのお》が燃え上る――寺の坊さんたちは頭をかかえて逃げ出したが、程経《ほどへ》て帰って見ると、鐘はもとのままだが、蛇はいない、熱くて鐘の傍へは近寄れない――遠くから鐘を押し倒して見ると、安珍殿はいない、骨もない形もない、ただ灰がちっとばかり残って……」
 これで、安珍清姫様の物語のあらすじは一通りわかったから、今度は帯である。
「六助さん、そしてその清姫様の帯というのが、まだどこかに残っているのですか」
「ああ、それそれ、その清姫さまの帯というのは、それとは全く別の話だ。まあ、いま話したようなことは、能狂言を見たり物の本でも見た人は大概《たいがい》知ってますがね、その清姫の帯というのはこの土地の人に限る、近頃おいでなすったお前さんに、それがわからないのは無理はない」
 お豊の聞こうとする本題は、ここまで来てやっと緒《いとぐち》が解けた。
「それはね、帯というたとて、金襴《きんらん》や緞子《どんす》でこしらえた帯ではない、天にある雲のことですよ」
「雲のこと……」
「それだけでは、まだわかりますまいね。なにしろ、それぐらいの執念ですから、この日高川の上、日高郡一帯には、まだ清姫様の怨霊《おんりょう》が残っているのですね」
「怖いことでございます」
「その怨霊が雲になって、この日高郡の空へ現われる、それ、あちらに見える鉾尖《ほこさき》ヶ岳《たけ》から、こちらに遠く白馬《しらま》ヶ岳《たけ》まで、一筋の雲がずーっと長く引いた時は大変だ、それが今いう、清姫様の帯だ」
「まあ、鉾尖ヶ岳から、白馬ヶ岳まで……」
「そうそう滅多にそんなことはないがね、五年に一度とか、十年目とかに、それが現われる」
「それが現われると、どうなるのでございます」
「それが現われたら、大変だ、この竜神村一帯に大災難が起る」
「それはホントでございますか」
「ホントにも嘘にも、昔からの言い伝えで、その時は、村中の御祓《おはら》い、御祈祷《ごきとう》、お慎《つつし》みをするのだ」
「その雲は夜でも……」
「夜でも昼でも、それが現われたが最後じゃ
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