様ではないかと思いまして」
「いや、そんなお客様はおいでがない、十人はさて措《お》き、一人もお見えになりませぬ」
「そうでございましたか」
 お豊はここにも言わん方なき失望でありました。
 川上へ雨が降ったので、初瀬川の水嵩《みずかさ》は増していました。河原の中程にあった地蔵堂は引き上げられて、やや離れた竹藪《たけやぶ》と仮橋《かりばし》の間に置かれてあったが、その藪へも水はひたひたと寄せているのでありました。
 お豊は仮橋から向うを見渡したけれど、桜井の町の燈火《あかり》が明るく見え、多武峰《とうのみね》が黒ずんでいるほかには人の影とては見えないのであります。
 淡月《うすづき》は三輪山の上を高く昇っているのに、河原はなんとなく暗い――涼しい風は颯《さっ》と吹いて来た。川波を逐《お》うて、蛍《ほたる》が淋しいもののようにゆらりゆらりと行く。
「ああ、わたしとしたことが、なんでこんなところまで来たのでしょう」
 幻影《まぼろし》を追うて夢の里を歩み、何かに引かれてここまで来たが、気がついてみると、お豊は自分ながら、なんでこんなところへ来たのかわかりませんでした。
 ここへ来ると気が抜け
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