お豊は周章《あわて》て梯子段《はしごだん》を下り尽したけれども、かの十人ほどの武士の一隊のうちの一人も、店へ入って来た人影はありませんでした。店先に打ち水の空手桶をさげてぼんやり立っているのは女中一人。
「お光さん、今こちらへ、お客様がお見えになりましたでしょう」
「いいえ」
「それでは、ここを十人ばかりのお武家様がお通りになったでしょう」
「あ、お通りになりました」
「そして……どちらへお越しになりました」
「鳥居のわきを南の方へおいでになりました」
「まあ、そうでしたか。それでは違ったか知ら」
お豊はそれから、もしやと植田丹後守の邸の前まで行ってみました。
しかし、邸はいつもの通り穏かなもので、下男の久助が打ち水をしている。
「久助さん、久助さん」
「おや、お豊さんか」
「あの、ただいまお邸へお客様がありましたか」
「いや、さっき郡山《こおりやま》からのお使が一人見えたっきり、正午前《おひるまえ》のうちは武者修行が三人ほどおいでになりましたが、直ぐお帰りでした」
「ああ、そうでございましたか。あの、たったいま十人ほどのお武家が、こちらへお通りになりましたから、もしやお邸のお客
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