いんろうざや》の武士は衆を顧みて腕をまくり立てる。
「結構、事の血祭りに幕府の間諜《いぬ》を斬れ、伊賀の上野とは幸先《さいさき》がよい、やい幕府の間諜、表へ出ろ、荒木が三十六番斬りの名所を見せてやる」
彼等は竜之助を、その鍵屋の辻へ引張り出して斬ってしまおうと考えたらしい。まことに無意味な行きがかりに過ぎないけれども、竜之助はそれを拒《こば》むべき人ではなかった。
この時、向うの室の床柱を背負って、さっきから少しも動かずに茫然《ぼうぜん》と事のなりゆきを見ていた小兵《こひょう》にして精悍《せいかん》、しかも左の眼のつぶれた男があったが、
「おのおの方、詰《つま》らんことをなさるな」
小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた右の浪士は、膝の上に絵図をひろげて眺めていながら、さいぜんからの騒ぎは、よそを吹く風のようにしていたが、この時はじめて頭を振向けてこう言った。
「あまりといえば無礼な奴」
「無礼は、こちらのこと」
「先生、これは間諜《いぬ》でござる、幕府の犬に違いござらぬ」
「なんにしても、おのおの方よりは少し強いようじゃ」
「宿を騒がすも気の毒ゆえ、鍵屋の辻へ引っぱり出して斬ってし
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