入りたくない」
「あの、旦那様、お隣室《となり》が混み合いまして、まことにお喧《やかま》しゅうございましょう。あの、少し手狭《てぜま》ではございますが、あちらの四畳半が明いておりますから、御案内申しましょうか」
「ここでよろしい」
 この室でよろしいとキッパリ言われたから女中は二の句が継げなかったが、やっと、
「それでも、ここは、あのお隣室のお客様が夜更けまでお話しになるとお困りでしょうから」
「いいや、賑《にぎや》かでかえってよい」
 膠《にべ》もない言葉である。
「それでは、どうも……」
 切出しが拙《まず》かったので、女中はヘトヘトになって言葉を濁《にご》して出てしまいました。
 しばらくたつと、また隔ての襖が二寸ほど開いて、じっとこっちを見たのは眼の大きい面《かお》の色の赭黒《あかぐろ》い総髪《そうはつ》の男であったが、今度は篤《とく》と竜之助の面を見定めてから、また襖を締め切り、
「まだいるぞ」
「まだいる?」
 また手がハタハタと烈しく鳴る。
「お召しになりましたのは、こちら様で……」
 恐る恐るやって来たのは、以前の女中でなくて番頭。
「貴様は何だ」
「へえ、番頭でござい
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