何者であるかは今日でもわからない、おそらく新兵衛ではあるまいということ。

 竜之助のいる次の間へ多くの人が入って来たので、田中新兵衛の噂は立消えになったが、
「女中、あの襖《ふすま》をはずしてくれ」
 彼等の集まったのは、竜之助の隣りの十畳の間を二つ打抜いたので、竜之助のはそれにつづいた六畳一間であったが、いま向うでその襖をはずせと言ったのは、集まった浪人の中の重立《おもだ》った者らしい。
「あの、お隣りにはお客様がおいででござりまする」
「ナニ、隣りに客がいる?その客というのは何者だ」
「はい、やはりお武家様でございます」
「ふむ、武士か。幾人いる」
「お一人でございます」
「一人――しからばなんとか都合《つごう》をして、そのお客をほかの座敷へやってくれ」
「はい……」
「我々共が、この三間を通して借受ける、隣りのお客に体《てい》よく申して立退かしてくれ」
「お話を致してみましょう」
 女中は心なくお受けをして引き下った様子。浪人連は、
「暑かったな」
「なかなか暑い」
「風呂に入れ」
「今、酒井と那須が入っている」
「そうか、氷を食え」
 氷を噛《かじ》る音ガリガリ。
「いま聞け
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