(或いは三十歳)であったという。
 この姉小路という人は、体質は弱い人であったけれども、十九ぐらいの時に夜中《やちゅう》忍び歩いて、関白以下の無気力の公卿を殺そうという計画を立てたほどの気象《きしょう》の荒っぽい人であった。東久世《ひがしくぜ》伯は、こんなことを言う、「そうさ、我々の仲間では、あれがいちばん豪《えら》かった、岩倉とどちらであろうか、ともかくも岩倉と匹敵《ひってき》する男であった、岩倉よりも胆力があって圧《おし》が強い方であった、しかし気質と議論が違うからとうてい両立はできない、岩倉をやっつけるか、やっつけられるか、どちらかであろう」と言われましたが、まことに惜しいことをしたものです。
 またその頃の蔭口《かげぐち》に、「三条公は白豆、姉小路卿は黒豆」という言葉もあった。
 これほどの人が何故に殺されたか、その詮議《せんぎ》よりもまず何者が殺したかという詮議であったが、そこに残された刀が物を言う。
 その刀は縁頭《ふちがしら》が鉄の鎖《くさり》で、そこに「田中新兵衛」と持主の名前が明瞭に刻《きざ》んであった。中身は主水正正清《もんどのしょうまさきよ》、拵《こしら》えはすべ
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