ば鍛冶倉は、
「これやい、お豊、お豊坊」
鍛冶倉の背後《うしろ》には、さっきから女が一人、泣き伏している、その帯際《おびぎわ》を取った鍛冶倉。
馬上の武士に鉄砲で脅《おどか》された七兵衛は、林へ飛び込んで木の繁みを潜《くぐ》って北へ逃げた。
山辺郡《やまべごおり》につづくあたりは全く人家がない、初瀬の裏山へかかっても人家がない。
人家のないことは何でもない、山道を通ることも七兵衛には何の苦もない、山でも林でも、ずんずん横切って北へ通してみたら奈良街道へ出るだろう、それを南へ直下すれば八木へ着く。
楢《なら》の小枝を折って蜘蛛《くも》の巣を打ち払いながら北を指して行ったが、行けども行けども山。
そうして七兵衛は針ヶ別所に近い或る山の上に立って、木の下蔭から日脚《ひあし》の具合を見て、しばらく方角を考えていました。
別に疲れも怖れもしないが、いくら山の中の木の葉の繁みを歩いたからとて、夏のことだから汗も出れば咽喉《のど》も乾く。
「水が飲みたいな」
滝の音が聞えない、渓流の響きが耳に入るでもないけれども、山と山との谷間《たにあい》には多少の水はあるものである。木の葉の雫《
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