飛び下りて探してみたが、もう七兵衛の姿は見えない。

         十八

 ここは針《はり》ヶ別所《べっしょ》というところの山の奥の奥。谷合《たにあい》の洞穴《ほらあな》へ杉の皮を葺《ふ》き出して、鹿の飲むほどな谷の流れを前にした山中の小舎《こや》。
 無論、ここまで来てみれば、小舎も流れも、どこからも見えはしない、ここまで来るのでさえ道というものはついていない。
 今、その中で人の話し声がする。いかに大きな声をしたからとて山の上まで響くはずがない。よし山の上へ響いたとて、そこには誰も聞く人はない。
「金蔵、うまくいったな」
 ゾッとするほど気味の悪い鍛冶倉《かじくら》は、小舎の中へ敷き込んだ熊の皮の上にあぐらをかいて、煙草を吹かしてこういう。
「親方、うまくいきました」
 金蔵はまだ落着かない様子。
「まあ、暫くはここで窮命《きゅうめい》しろ」
 鍛冶倉は、この辺の山の中へところどころこんな小舎をこしらえておく。そこへはいつでも十日分ほどの食料を用意しておく。
「親方、こうなってみると、俺は一刻も早くお豊をつれて里へ出たい」
「ばかなことを言うな、いま連れ出せば罠《わな》の中へ
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