モシ、お武家様」
 旅の人は、引き戻すように手をあげて呼び止めます。
「何御用か」
「あなた様は、もしや――武州沢井の若先生ではござりませぬか」
「ナニ、沢井の――」
 竜之助はこの時、馬をとどめさせて、この旅の人を見据えて見ると、年の頃は五十に近かろう、百姓|体《てい》の男で、どうも見たような男ではあるが、急には思い出せない。
 右の男は、被《かぶ》っていた笠の紐を解きかけながら、
「間違いましたら御免下さいまし、あなた様は沢井の机弾正様の若先生、あの竜之助様ではございませぬかな」
 不思議な旅の男の言い分を、じっと聞いて、
「いかにも――拙者はその机竜之助」
 これを聞いて旅の男は、
「左様でございましたか、それで安心致しました。私共、あの青梅在、裏宿の七兵衛と申す百姓でございます」
「青梅の――七兵衛?」
 万年橋の上で、抜打ちにその腰を斬って逃げられたことがある。その盗賊がこの七兵衛であることは、斬られた七兵衛はよく知っているが、斬った竜之助はそれを知らない。
「どこへ行くのだ」
「いや、どこへでもございませぬ、あなた様をたずねて、これへ参りました」
「ナニ、拙者をたずねて?」
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