っております。
 日中は暑さを厭《いと》い、今朝の暗いうちに馬を仕立てて、三輪を立った薬屋源太郎とお豊とは少し先に、竜之助は二人の馬から十間ほど離れて、これもやはり馬で、この西峠を越したのでありましたが、小野の榛原には、青すすきが多く、大きな松や樅《もみ》が並木をなして生えています。
 仰いで見ると四方に山が重なって、遠くして高きは真白な雲をかぶり、近くして嶮《けわ》しきは行手に立ちはだかって、人を襲うもののように見られます。
 峠の上には雲雀《ひばり》が舞い、木立の中では鶯《うぐいす》が、気味の悪いほど長い息で鳴いている。そして木の下萌《したもえ》は露に重く、馬の草鞋《わらじ》はびっしょりと濡れる。
 竜之助は、またも旅人《りょじん》の心になりました。
 三輪で暮らした一月半は、再びは得らるまじき平和なものでありました。竜之助の生涯に、人の情けをしみじみと感じたのは、おそらく前にも後にもこの時ばかりでありましょう。
 大和の国には神《かん》ながらの空気が漂うている、天に向うて立つ山には建国の気象があり、地を潤《うる》おして流れる川には泰平の響きがある。
 竜之助は、西峠の上に立った時
前へ 次へ
全115ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング