せず。
 お豊は、こころもち膝をこちらに向けるようにして、二人は、やはり蒸し暑い空気に抑《おさ》えられてだまっていると、蚊遣火の煙は、その間に立ち迷うて見えます。
「お豊どの、そなたも遠からず伊勢へ帰られるそうな」
「どうなりますことやら」
「さてさて世間には、身の始末に困った人が多いことじゃ」
 竜之助は、このとき少しく笑う。
「生きている間は故郷へは帰るまいと思います、帰られた義理ではありませぬ」
「なるほど……」
「伯父は遠からず連れて帰ると申しますけれど、わたしは帰らぬつもりでございます」
「して、永くこの地に留まるお考えか」
「いいえ」
「では、どこへ」
「あの、私はいっそ、生きているならばお江戸へ行って暮らしたいと思いまする」
「江戸へ――」
「はい、江戸には叔母に当る人もあるのでございますから、それを頼《たよ》って、あちらで暮らしてみたいと思っておりまする」
「うむ、江戸で暮らす――それもまた思いつきじゃ」
「それにつきまして、あなた様には……関東へお立ちの時に……」
 お豊は、ここまで来て言い淀《よど》んだようでしたが、思い切った風情《ふぜい》で、
「突然にこんなことを
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