んな愚痴《ぐち》は聞いても話しても由《よし》ないことじゃ」
竜之助は、団扇をとってその墨絵をじっと見つめている。
曾《かつ》て、島原の角屋《すみや》で、お松が竜之助の傍に引きつけられているうちに、その身辺からものすごい雲がむらむらと湧き立つように見えて、ゾクゾクと居ても立ってもいられないほど怖《こわ》くなったことがあります。今、幽霊も遊びに出ようとする夏の夕べを背景に、蒼白い沈んだ面の竜之助を、お豊がこちらから見る時に、この人の身のまわりには、やはり何かついて廻っているものがある。
大気がにわかに蒸してきた。さっきから飲んでいた三輪のうま酒の酔いがこの時に発したのか、竜之助は、ふいと面を上げると、蒼白い面の眼のふちだけに、ホンノリと桜が浮いている。
「お豊どの、そなたは酒を上らぬか、三輪の酒はよい酒じゃ」
「いいえ、わたしはいけませぬが、お酌《しゃく》ならば……」
お豊も自ら怪しむほどに言葉が砕けてきた。
蒸してきた空気のために、太鼓の音も泥をかき廻すようで、竜之助もお豊も何かの力で強く押されているようです。
そうは言ったけれど、竜之助は再び酒杯《さかずき》を手に取ろうとは
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