思う」
「何かの御縁でございましょう。あの、あなた様にはそのうち関東の方へお立ちと聞きましたが、それはほんとうでございますか」
「うむ、拙者の身の上も……いろいろに変るので。どうやらこのごろでは、この土地に居つきたい心地《ここち》もする、当家の御主人があまりに徳人《とくじん》で、父に会うたように慕わしくも思われるから。しかし、そのうち立たねばなりませぬ」
「さだめし、お国では奥様やお子供様がお待ち兼ねでございましょう」
「いや、拙者に女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
 カラカラと冴《さ》えた神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が、この時、竜之助の腸《はらわた》に沁《し》みて、団扇《うちわ》を取り上げた手がブルブルとしびれるように感じます。
 どうかすると、世間には竜之助のような男を死ぬほど好く女があります――好かれる方も気がつかず、好く方もどこがよいかわからないうちに、ふいと離れられないものになってしまう。
「女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
と言って俯向《うつむ》いた竜之助の姿を、お豊はなんともいえぬほど物哀れに感じたのであ
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