ない人であろう! 気がついて見ると竜之助は、第二の石段をカタリカタリと下駄の音をさせながら、わき目もふらず祓殿《はらいでん》の方へと下りて行きます。

         八

 関の宿で悪い駕籠屋《かごや》に苦しめられたのを見兼ねて追い払ってくれた旅の武士《さむらい》はあの人であった。あれだけの縁であると思ったらば、ここでめぐりあったあの武士が何もかもいちいち自分の身の上を知っているようである。
 関の地蔵に近い宿屋に、真三郎と一夜を泣き明かして、さて亀山の実家へは帰れず、京都へ行くつもりで、鈴鹿峠を越えて、大津の宿屋まで来ると、もう行詰まって二人は死ぬ気になった。遺書《かきおき》を書いて、二人の身を、三井寺に近い琵琶湖の淵《ふち》へ投げたが、倉屋敷の船頭に見出されて――男をひとり常久《とわ》の闇に送って自分だけ霊魂を呼び返される。今となっては、死ぬにも死ねず、この生きたぬけがら[#「ぬけがら」に傍点]を、昔の人に遇わせることが、あまりといえば浅ましい。お豊は、しばらく立去り兼ねて涙を押えていましたが、
「お豊さん、お豊さん」
 二本杉の後ろに声がある。
「はい――」
 お豊は驚いて涙
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