ではあるまいな」
「とても、こうした身体《からだ》でございます、その代り金蔵さん、決してほかの人を怨んで下さるな……」
「そうきまれば……お前さんさえその気なら、なんで人を怨もう。ああ嬉しい、わしの願いが叶《かな》った……こんな嬉しいことはない。お豊さん、これから直ぐに紀州へ逃げましょう、あのさっき話した通り、紀州の竜神というところへ逃げましょう、そこにはわしの親たちが温泉宿をやっている……ああ嬉しい」
 竜之助のここへ来かかることは遅かった。
 さいぜんからの始末をようく聞いていたならば、お豊の覚悟をしたというわけも、金蔵の嬉しがるわけも、すっかりわかるのであるが、これだけ聞いたのでは聞かない方がよかった。
 何だ!軽薄な女。
 もう自分のことは、すっかり忘れてしまって、ここでは別の若い男と出会って、身を任せる――言句《ごんく》は絶え果てた……男一匹がこの女のためにさんざんに翻弄《ほんろう》されていたのだ、人を斬ることの平気な竜之助は順序として、ここで、この二人を並べて置いて斬るであろう――けれども竜之助は、刀へは手もかけないし歯噛《はが》みをしている様子もない。
 昔は、この女がま
前へ 次へ
全115ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング