も、子のない人には、消して消せない寂しさがあります。
 われ一人を子に持って、三年越しの病の床から、勘当を言い渡さねばならなかった父弾正の胸の中はどんなであったろう――一徹《いってつ》の頑固《がんこ》な父とのみ見ていた自分の眼は若かった。このごろでは竜之助も、東に向いて別に改まって手を合わすようなことはせぬけれど、ひそかに襟《えり》を正して、父の上安かれと祈ることもたびたびであります。
 彼は、このしおらしき心根《こころね》から、おのずと丹後守に仕える心も振舞《ふるまい》も神妙になる――もともと竜之助は卑《いや》しく教育された身ではない、どこかには人に捨てられぬところが残っているのであろう、丹後守夫婦は竜之助を愛してなにくれと世話をします。ここへ来てから三日目の夕べ、竜之助は三輪明神の境内を散歩して、うかうかと、かの薬屋源太郎の裏道の方へ出てしまいました。
 竹の垣根があって、かなりに広い庭の植込から、泉水のひびきなども洩《も》れて聞えます。庭の方は大きな構えで、燈火《あかり》が盛んにかがやいて客や女中の声がやかましいのに、この裏庭は、垣根一重を境にして、一間ほどの田圃道《たんぼみち》
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