とを言っても駄目、わしに一人で江戸へ行けなんと言ってもそれは駄目だよ」
「そんなことを言わずに、お逃げなさい、あの景《けい》のよい東海道を下って、公方様《くぼうさま》のお膝下《ひざもと》の賑かさをごらんなされば、わたしのことなどは思い出す暇はありやしませんよ」
「駄目だ駄目だ、公方様のお膝下がいくら賑かでも、お豊さんという人は二人といやしないからねえ」
「どうも困りました」
 お豊は、もうなんと言い賺《すか》すこともできなくなってしまったものです。
「お豊さん、わしはこう思っているのだよ、まあ聞いて下さい。わたしのためにわたしの親たちまでが、この土地にいられなくなって立退いたことは、お前さんも知っているでしょう」
「はい……」
「その、わしの親たちはね、母親の里なのですよ、紀州の山奥に竜神《りゅうじん》という温泉場があるのですよ、そこでね、いま温泉宿をやっているのですよ」
「はい……」
「こちらの身上《しんしょう》を、すっかり片づけて、紀州へ隠れて、かなりの温泉宿をやっているのですよ。どうです、お豊さん、そこへわたしと一緒に行きませんか」
「紀州へ?」
「エエ、わたしもね、お前さんの伯
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