様ではないかと思いまして」
「いや、そんなお客様はおいでがない、十人はさて措《お》き、一人もお見えになりませぬ」
「そうでございましたか」
 お豊はここにも言わん方なき失望でありました。
 川上へ雨が降ったので、初瀬川の水嵩《みずかさ》は増していました。河原の中程にあった地蔵堂は引き上げられて、やや離れた竹藪《たけやぶ》と仮橋《かりばし》の間に置かれてあったが、その藪へも水はひたひたと寄せているのでありました。
 お豊は仮橋から向うを見渡したけれど、桜井の町の燈火《あかり》が明るく見え、多武峰《とうのみね》が黒ずんでいるほかには人の影とては見えないのであります。
 淡月《うすづき》は三輪山の上を高く昇っているのに、河原はなんとなく暗い――涼しい風は颯《さっ》と吹いて来た。川波を逐《お》うて、蛍《ほたる》が淋しいもののようにゆらりゆらりと行く。
「ああ、わたしとしたことが、なんでこんなところまで来たのでしょう」
 幻影《まぼろし》を追うて夢の里を歩み、何かに引かれてここまで来たが、気がついてみると、お豊は自分ながら、なんでこんなところへ来たのかわかりませんでした。
 ここへ来ると気が抜けて、お豊は行くのもいや、帰るのもいやになりました。
 地蔵堂の傍の蛇籠《じゃかご》へ腰を掛けてしまいました。そうしてぼんやりと夜の河原をながめていました。頭はいろいろのことを考えて、いっぱいになっていました。
「お豊さん」
 地蔵堂のうしろから不意に人が出て来たので、我に返ります。
「お豊さん、わしは金蔵じゃ、驚きなさるな」
「まあ、金蔵さん――」
 迷うて来た――金蔵は、とうとう幽霊になって自分に取附いて来た。驚くなと言ってもこれは驚かずにはいられない、お豊は身の毛がよだって、体がすくんでしまいました。
「お豊さん、驚いちゃいけません、金蔵です、金蔵がこうして生き返って来たのですよ」
 藪蔭《やぶかげ》から出て来た金蔵は、糸楯《いとだて》を背に負って、小さな箱をすじかいに肩へかけて、旅商人|体《てい》に作っていました。
「さあ、そんなに驚いちゃいけませんというに。お化《ば》けじゃありませんよ、金蔵は生き返って来たのですよ、お前さんというものが思い切れないで、生《しょう》で帰って来たのですよ」
 ああ、生き返って来たのに違いない、幽霊でもお化けでもなんでもなく、生《しょう》のままで金蔵はここに立っている。
「金蔵さん、お前は助かりましたか」
 お豊は逃げることもできないので、やっとこう言ってみますと、
「ああ、助かりました。あの時、針ヶ別所の山の中で、鍛冶倉《かじくら》の奴にひどい目に遭《あ》って、首へ細引《ほそびき》を捲《ま》きつけられましたがな、わしはまた、鍛冶倉を山刀で無暗《むやみ》に突き立てて突き殺しましたよ。わしも一旦は縊《くび》り殺されたのですがね、しばらくすると息を吹き返しましたよ。誰か知らん、首に捲きつけた細引をといてくれた人があったのでね。やれ嬉《うれ》しやと小舎《こや》へ這《は》い込んで見ると、お豊さん、お前の姿は見えないや……」
 金蔵は中腰《ちゅうごし》になって、お豊の前で、あの時の物語をはじめます。
「見れば鍛冶倉の奴は傍で死んでいるし、それではお豊さん、お前が逃げる時に、わしの首から細引をといて行ってくれたのかと思った時は、わしは嬉しかったよ」
「あの、それは……」
「それだけでも、わしはお前さんの親切が嬉しくって、嬉しくって。あれからわしは谷を這い廻ってやっと里へ出て、惣太《そうた》が家へ二日ばかりかくまってもらって、それから身体《からだ》もすっかり快《よ》くなったからね、わしはお前、こんなふうに薬売りの真似をしてね……どこへ行くものか、この界隈《かいわい》を夕方になるとぶらついて、お前の様子を見て廻っていたのだよ、どうか、お前に一目、会いたいと思ってね」
「まあ……」
「お前さんが、旅の人に助けられたことも、薬屋へ送り届けられたことも、薬屋で養生をしてもとの身体になったことも、直ぐわかりましたよ。だからわしはお前さんの家へ忍び込んで、お前さんを奪い出そうとこう思ったがね、荒っぽいことをする前に、一応お前さんに直接《じか》に会って、わしの心の丈《たけ》をよく聞いてもらった上のことにしようと、毎日毎日、お前さんをつけ覘《ねら》っていたが、お前さんはまるきり外出をなさらぬ。いよいよ今晩こそと、思い込んだ矢先、お前さんは大急ぎで二階から下りて、植田のお陣屋の方へ行きましたね、占めたとわしはあの時から、お前さんのあとをつき通しで、ここまで来たのですよ」
 ああ、どこまで執念深《しゅうねんぶか》い男であろうとお豊は身慄《みぶる》いを止めることができません。
「金蔵さん、お前のお心は有難いけれども、どうぞ堪忍《かんにん》して下さ
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