い」
「お豊さん、心配しなくてもいいよ。わしはここでは、手荒いことはしませんよ、ただ今晩は、お前さんに、わしの心の丈《たけ》を聞いてもらいたいのだよ」
「金蔵さん、おたがいに、もうそんなことをよしましょう、わたしは帰ります」
「帰しません、一通り、わしのいうことを聞いてくれなければ、ここは動かせないのですよ、お豊さん……お前さんのために、わしがどれほど苦労したか、お前さんは知るまいねえ」
金蔵はオロオロ声です。金蔵は生《は》え抜きの悪党ではなく、親に甘やかされた放蕩息子《ほうとうむすこ》の上りですから、本気になって物を言う時には、お坊ちゃんらしいところがないではない。
「わしばかりではなく、わしの親たちまで、お前さんのために飛んだ苦労をしているのだよ、あの時にお豊さんが、私のところへ来てくれれば、わしも人殺しなんぞをしなくてもよかったのだよ、ねえ、お豊さん」
「…………」
「いいかえ、わしは、お豊さん、兇状持《きょうじょうもち》なのだよ、今にも役人につかまれば首を斬られてしまうのだよ、お前の伯父さんを鉄砲で撃ったのもわしだよ、鍛冶倉を殺したのもわしだよ。そんなに悪いことをするつもりはなかったけれども、お前さんという者に迷い込んで、そんな悪いことをしてしまったのだよ、お前さんという人が三輪へ来なければ、わしはこれほどまでに悪い人にはならなかったのだよ」
「ほんとに済みません、わたしが来なければ、よかったのでございます……」
「あ、お豊さん、よく言ってくれた、わしはお前さんに済みませんと言われたのが嬉しい……」
金蔵は、どうしたのか、面を伏せて沈んで涙を拭いているらしいのです。お豊は、どうにもかわいそうになって、
「金蔵さん、わたしが三輪へ来たのが悪いのですから、堪忍《かんにん》して下さい、そうしてお前さん、わたしを思い切って、早く遠い国へ立退いて下さい、女ひでりの世ではあるまいし、わたしのような者をそんなに思って下さらなくても、世間にはずいぶん立派なお方があるのですから。あなたもお若いに、男の器量ではありませんか、どうか、わたしを思い切って、お役人に見つからないうちに遠くの方へ逃げて下さい」
「あ……ありがたい……お豊さん……」
金蔵は泣いている。
「お前さんにそういわれると、わしは思い切りたいが……お豊さん、そんなに言われれば言われるほど、思い切れなくなってしまう」
「ああ、どうしましょう」
「お豊さん、お前を思い切るくらいなら、わしは死んでしまった方がよい」
「そんなことを言うものではありません」
「お前さんが、わたしの言うことを聞いてくれなければ、わしは死にます、自分で死ぬか、役人につかまるか、どのみち、わしは死んでしまうのですよ」
「それですから、早く逃げて下さい、お金が入用《いりよう》なれば、少しぐらい、どうでもして上げますから」
「お金はあるよ、家を逃げ出す時に持っていたのが、まだこの箱の中にソックリあるから、逃げようと思えば路用《ろよう》には困らないのだよ」
「そんなら、金蔵さん、ずっと遠く江戸の方へでもお逃げなさい、そうしているうちに、縁があれば、またお眼にかかりましょうから――わたしも実は江戸の方へ参ろうかと思っているところでございますよ」
「ナニ、お豊さん、お前が江戸へ行く? それはほんとかい、ほんとならば一緒に行こう、ぜひ一緒に逃げましょう」
金蔵は涙の面《かお》をやっと擡《もた》げる。お豊は言い過ぎたのを気がついて、
「けれども、わたしのは、いつのことだか知れません、お前さんのは急場《きゅうば》ですから」
「そんなことを言っても駄目、わしに一人で江戸へ行けなんと言ってもそれは駄目だよ」
「そんなことを言わずに、お逃げなさい、あの景《けい》のよい東海道を下って、公方様《くぼうさま》のお膝下《ひざもと》の賑かさをごらんなされば、わたしのことなどは思い出す暇はありやしませんよ」
「駄目だ駄目だ、公方様のお膝下がいくら賑かでも、お豊さんという人は二人といやしないからねえ」
「どうも困りました」
お豊は、もうなんと言い賺《すか》すこともできなくなってしまったものです。
「お豊さん、わしはこう思っているのだよ、まあ聞いて下さい。わたしのためにわたしの親たちまでが、この土地にいられなくなって立退いたことは、お前さんも知っているでしょう」
「はい……」
「その、わしの親たちはね、母親の里なのですよ、紀州の山奥に竜神《りゅうじん》という温泉場があるのですよ、そこでね、いま温泉宿をやっているのですよ」
「はい……」
「こちらの身上《しんしょう》を、すっかり片づけて、紀州へ隠れて、かなりの温泉宿をやっているのですよ。どうです、お豊さん、そこへわたしと一緒に行きませんか」
「紀州へ?」
「エエ、わたしもね、お前さんの伯
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