ます」
「さいぜんから、この隣室を明けておもらい申すように再三申しつけたところ、なんでそのように取計らわぬ」
「恐れ入りましてございます、では手前からもう一応」
番頭は非常に恐縮して、すぐその足で竜之助のところへやって来ました。
「御免を願いまする――」
「何用じゃ」
「どうも、混雑致しまして、行届き兼ねまする。時にお客様――甚だ申し兼ねた儀でござりまするが、このお部屋は、ちと喧《やかま》しゅうござりますので、どうか、あちらへお引移りを願いたいものでござりまして……」
「いや、ここでよろしい、かえって賑かでよい」
「へえ……」
番頭は思わず頭に手を置いた。
「それに致しましても、隣室の衆が、お気の荒いお方のように見えますから、もし間違いでもありましては……」
「いや、心配することはない」
「でも、もしやお間違いが出来ますると、あなた様のみならず手前共まで迷惑致しますから、どうぞお引移りを」
「こちらが黙って控えておれば間違いの起る筋《すじ》もなかろう、心配するな」
「でもござりましょうが……」
「ここでよろしいと申すに」
番頭は困《こう》じ果てた。この時、隔ての襖を荒っぽく引きあけて、
「御免」
案内もなく入り込んで来たのは、髻《もとどり》を高く結び上げて、小倉《こくら》の袴を穿いた逞《たくま》しい浪士であります。手には印籠鞘《いんろうざや》の長い刀を携《たずさ》えて、
「番頭どけ――」
竜之助の前へ※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]然《どっか》と坐って、
「初めて御意《ぎょい》得申す」
「何か用事でござるか」
「さきほどから再三、宿の人を以て申し入れる通り、我々はごらんの通りの多勢じゃ、お見受け申せば貴殿はお一人、どうかこの席を多勢の我々に譲っていただきたい」
「その儀ならばお断わり申す」
「ナニ、断わる?」
印籠鞘の武士は眼に角《かど》を立てて、
「女中や番頭どものかけ合いとは事変り、武士が頼みの一言じゃ、気をつけて挨拶を致せ」
竜之助は武士の方には取合わないで、番頭の方を見て、
「番頭殿、この気狂いを、あっちへ連れて行ってくれ」
印籠鞘は激昂《げっこう》して、
「気狂いとは何だ……気狂いとは聞捨てならん」
「まあまあ、そこのところをひとつ――どうかそういうわけでございますから旦那様、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》でどうもはや、どうかお引移りを願いたいもので……」
番頭はてんてこまいをはじめる。
「汝《おの》れは間諜《いぬ》じゃ、幕府の犬であろうな」
印籠鞘の浪士は竜之助に詰め寄せる。
「やれやれ! やっつけろ!」
いま開け放しておいた襖《ふすま》から七つ八つの、いずれも穏かならぬ面《かお》がさいぜんから現われて、この無作法《ぶさほう》な浪士の後援をつとめていたのがいま一斉《いっせい》に弥次《やじ》り出した。
どこへ行っても、今頃は、こんな血《ち》の気《け》の多いのに打突《ぶっつ》かることが珍らしくない。いや、竜之助は、これよりもっともっと生命知《いのちし》らずの新撰組や、諸国の浪士の間に白刃《しらは》の林を潜《くぐ》って来た身だ。
白い眼で、じっと見て、左手で植田丹後守から餞別《せんべつ》に貰った月山《がっさん》の一刀を引き寄せる。
竜之助は、この刀を持ってから、まだ人を斬ったことはないのである。さりとはあまり物好きな、この連中を相手に喧嘩《けんか》を買ってみる気か知らん。
浪士らは、一喝の下に嚇《おど》してくれようと威勢を見せたが、案外、手答えがなく、シンネリとして蒼白《あおじろ》い面に憤《いきどお》って沸くべき血の色さえも見えず、売りかけられた喧嘩なら、いくらでも買い込む気象を見せて、刀を引き寄せた竜之助の挙動を見て、かつは呆《あき》れかつは怒ったのであります。
「汝《おの》れは、生命《いのち》というものが惜しくないか!」
印籠鞘の浪士は居合腰《いあいごし》になって刀を捻《ひね》ったのである。
「生命なんぞは惜しくない――」
彼は月山の新刀を手にとると、この時むらむらとして無暗《むやみ》に人を斬りたくなった。
「いけません、いけません、どうかまあ、あなた様もお鎮《しず》まり下さい、こなた様もお控え下さい、手前共で迷惑を致します、ほかのお客様にも御迷惑になります、どうか、お抜きなさることは、御容赦《ごようしゃ》を願います、御容赦を願います」
番頭は必死になって支えてみたけれども、もとよりその力には及ばない。
「宿を騒がしても気の毒じゃ、どうだ諸君、これより程遠からぬところに鍵屋《かぎや》の辻《つじ》というのがある、鍵屋の辻へ行こう、音に聞く荒木又右衛門が武勇を現わしたところじゃ、そこで一番、火の出る斬合いをやって、伊賀越えの供養《くよう》をしてみたいなあ」
かの印籠鞘《
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