何者であるかは今日でもわからない、おそらく新兵衛ではあるまいということ。

 竜之助のいる次の間へ多くの人が入って来たので、田中新兵衛の噂は立消えになったが、
「女中、あの襖《ふすま》をはずしてくれ」
 彼等の集まったのは、竜之助の隣りの十畳の間を二つ打抜いたので、竜之助のはそれにつづいた六畳一間であったが、いま向うでその襖をはずせと言ったのは、集まった浪人の中の重立《おもだ》った者らしい。
「あの、お隣りにはお客様がおいででござりまする」
「ナニ、隣りに客がいる?その客というのは何者だ」
「はい、やはりお武家様でございます」
「ふむ、武士か。幾人いる」
「お一人でございます」
「一人――しからばなんとか都合《つごう》をして、そのお客をほかの座敷へやってくれ」
「はい……」
「我々共が、この三間を通して借受ける、隣りのお客に体《てい》よく申して立退かしてくれ」
「お話を致してみましょう」
 女中は心なくお受けをして引き下った様子。浪人連は、
「暑かったな」
「なかなか暑い」
「風呂に入れ」
「今、酒井と那須が入っている」
「そうか、氷を食え」
 氷を噛《かじ》る音ガリガリ。
「いま聞けば、このつい[#「つい」に傍点]先が鍵屋の辻といって、荒木又右衛門が武勇を現わしたところじゃそうな」
「うむうむ、それをいま知ったか」
「面白い、荒木の三十六番斬りなんというのは、よく張扇《はりおうぎ》で聞くが、いつも壮快じゃ、荒木の前に荒木なく、荒木の後に荒木なしと言ってな」
「山陽の作った詩に、こんなのがある、ひとつ歌って聞かそうか」
「謹聴」
 詩を吟ずることを得意にする者が、興に乗じて歌おうという、一同はそれを謹聴するものらしい。
[#ここから2字下げ]
伊賀城頭|西閭門《せいりょもん》、
復讐《ふくしう》跡あり恍《くわう》として血痕《けっこん》、
仇人《きうじん》、馬に騎《の》り魚貫《ぎょくわん》して過ぐ、
挺刀一呼《ていたういっこ》、渠《かれ》が魂を奪ふ、
姉夫慷慨《しふかうがい》にして兼ねて義に従ふ、
脊令原《せきれいげん》寒うして同じく冤《ゑん》を雪《そそ》ぐ、
一水《いっすい》西に渡ればこれ※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]原《たうげん》、
当時投宿の館《やかた》はなほ存す、
吾れ来《きた》つて燈《とう》を挑《かか》げて往昔を思ふ、
想《おも》ひ見る淬刃暁暾《さいじんげうとん》を候《うかが》ふ、
嗟哉《ああ》、士風なほ薄夫《はくふ》をして敦《とん》ならしむ、
寛永の俗、いま誰と論ぜん。
[#ここで字下げ終わり]
 詩は吟じ終って暫らくのあいだ静かである。それにしても、もう立退き命令が来そうなものじゃと、隣室《となり》の竜之助は心待ちにもなるが、なかなか来ない。
 ちょっと、隔ての襖を細目にあけた者があったようだが、あけて直ぐに立て切り、
「まだいるわ、隣りに男が一人いる」
 あけた男は、やや小声であったけれど竜之助にはよく聞える。
「まだいるか、女中め、なんとも言わん」
 ハタハタと手が鳴る。
「お召しになりましたか」
 忙《せわ》しげにやって来た女。
「これこれ女、ナゼさいぜん申しつけた通り、隣室へ申し入れん」
「はい、どうも相済みませぬ、つい忙しいものでございましたから」
「早速、申し入れろ」
「はい、ただいま……」
 女中は、すぐに来るかと思うと、すぐには来ないでいったん下の座敷へ行ってしまったらしい。竜之助は袴でも取ろうかと思っているところへ、
「御免あそばせ」
 例の女中が入って来て、
「旦那様、風呂をお召しになりましては」
「まだ入りたくない」
「あの、旦那様、お隣室《となり》が混み合いまして、まことにお喧《やかま》しゅうございましょう。あの、少し手狭《てぜま》ではございますが、あちらの四畳半が明いておりますから、御案内申しましょうか」
「ここでよろしい」
 この室でよろしいとキッパリ言われたから女中は二の句が継げなかったが、やっと、
「それでも、ここは、あのお隣室のお客様が夜更けまでお話しになるとお困りでしょうから」
「いいや、賑《にぎや》かでかえってよい」
 膠《にべ》もない言葉である。
「それでは、どうも……」
 切出しが拙《まず》かったので、女中はヘトヘトになって言葉を濁《にご》して出てしまいました。
 しばらくたつと、また隔ての襖が二寸ほど開いて、じっとこっちを見たのは眼の大きい面《かお》の色の赭黒《あかぐろ》い総髪《そうはつ》の男であったが、今度は篤《とく》と竜之助の面を見定めてから、また襖を締め切り、
「まだいるぞ」
「まだいる?」
 また手がハタハタと烈しく鳴る。
「お召しになりましたのは、こちら様で……」
 恐る恐るやって来たのは、以前の女中でなくて番頭。
「貴様は何だ」
「へえ、番頭でござい
前へ 次へ
全29ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング