から、どうも解らぬわい」
「申し開きをせず腹を切ったことだから、言わずと当人|罪《つみ》に落ちたものじゃ」
「そうとも言い切れぬ、何かその間《かん》に……拙者もよく知っているが、あの田中という男は人を斬ったこと幾人か知れぬ、人を斬ることは朝飯前と心得ている、近頃は仕事がなくて腕が鳴る、誰か斬る奴はないかと人斬りを請負《うけお》って歩くほどの男じゃ」
「それにしても先方に位がある、威に怖《おじ》けたかも知れぬ」
「そんなことはない、侍従や少将の位が怖《こわ》くて暗殺はできん」
「役人も、薩州方も、新兵衛の仕業《しわざ》と思うているそうじゃ」
「拙者は、やはりそう思わぬ、新兵衛ではない」
これだけ聞いたのでは何だかサッパリわからない。人を斬ったのは田中新兵衛である、いやそうでない、斬って刀を捨てて来た、当人は黙って切腹した、斬られたのは位のある人――これだけの話の筋を辿《たど》れば、かの主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の長刀を帯していた新兵衛が、あの刀で誰をか斬ったものだろう。とにかく、あの男は何かやりそうな男であったが、はたして何かやった。しかし切腹とはかわいそうである。竜之助は、もっと詳《つまび》らかにそのことを聞いてみたいがと思っていると、階下《した》から数多くの人の足音。
「やあ、遅《おそ》なわり申した」
「これは、諸君」
刀の鞘《さや》、袴《はかま》の裾の音がものものしい。聞いてみると、それは雑多の声で、九州弁もあれば土佐弁もある。この地の藩の人ではない――近ごろ流行《はや》る浪人者である、と竜之助は直ぐに感づきました。
今の次の間の話――田中新兵衛が何者を斬ったかというのはこうである。
これより先、五月の二十一日に、京都|朔平門外《さくへいもんがい》、猿ヶ辻というところで、姉小路少将公知《あねこうじしょうしょうきんとも》という若い公卿《くげ》さんが斬られた。
少将がその日の夕方、吉村右京、金輪勇という二人の家来をつれ、提灯持《ちょうちんもち》を先に立てて、御所を出でて猿ヶ辻のところまで来た。
御所へ水を入れるところの堰《せき》の蔭から、物をも言わず跳《おど》り出でた三人の男がある。大業物《おおわざもの》を手にして、面《かお》も身体《からだ》も真黒で包んでいた。
「すわ!」
吉村右京は血気盛んの壮者《わかもの》であったから、素手《すで》でこ
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