か。当今、宝蔵院の槍は伊賀の名張に下石《おろし》と申すのがござる、これがよく流儀の統《すじ》をわきまえておられるはず、あちらへお越しの時に立ち寄って御覧《ごろう》じろ」
丹後守は、再び槍の話はさせないよう、しないように言葉を避けるから兵馬も、このうえ押すことはできなくなって憮然《ぶぜん》としていると、
「さいぜんおっしゃった甲源一刀流のこと、ついこの間も、その流儀から出でたものらしい、これも珍らしいお人が見えた」
「甲源一刀流の?」
兵馬は、そう聞いて少し気色《けしき》ばむ。関西においては甲源一刀流を学んだものがないことはないけれども、その流名を聞くことは甚だ稀れである。その流名を兵馬が聞けば、屹《きっ》と思い当ることがある。
「そのお人と申すのは、如何様《いかよう》の人にござりしや、少々思い当ることもあれば」
「その構えが無類じゃ、じっと竹内《しない》を青眼にとって、ただそのままの形……」
「さては――」
兵馬は我知らず膝を進めて、
「年の頃は?」
「三十三四でもあろうか」
「顔色青白く、眼は長く切れて、白い光を帯びた人ではありませぬか」
「その通り」
丹後守の無造作《むぞうさ》に頷《うなず》く時、兵馬の眼は燃ゆる。
十六
「ああ、惜しいことをした、貴殿のおいでが三日早ければ……」
丹後守は、兵馬から机竜之助の身の上と、兄が遺恨《いこん》のあらましを聞いて、兵馬の来ることの遅いのをくやんだが、
「どうも、あの宇陀《うだ》の山を南に吉野山中に迷い込みはせぬかと思われる。ただいま人をかけて行方《ゆくえ》を捜索中であるが、もしあの山中へ迷い込んだことなら、容易に見つからぬ」
兵馬は、ひとたびは力を得、ひとたびは失望し、さてこの上は自分も吉野郡の山中へ踏み込んでどこまでも行方を探すばかりだと覚悟を決めました。
こう覚悟をきめてみると、ここに悠々としている必要はない、例の宝蔵院の槍のことも、この場合、強《た》っての所望《しょもう》でもないのですから。
「よき手がかりを得て、かたじけのう存じまする。早速に拙者は仇《かたき》のあとを追うて、吉野の方へ参ることに致しまする」
「それもよろしゅうござる、お留めは致さぬが、しかし兵馬どの、拙者の見受け申すところでは、その机竜之助とやらは稀代《きだい》の遣《つか》い手《て》である、ほとんど今の世に幾人
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