ない人であろう! 気がついて見ると竜之助は、第二の石段をカタリカタリと下駄の音をさせながら、わき目もふらず祓殿《はらいでん》の方へと下りて行きます。
八
関の宿で悪い駕籠屋《かごや》に苦しめられたのを見兼ねて追い払ってくれた旅の武士《さむらい》はあの人であった。あれだけの縁であると思ったらば、ここでめぐりあったあの武士が何もかもいちいち自分の身の上を知っているようである。
関の地蔵に近い宿屋に、真三郎と一夜を泣き明かして、さて亀山の実家へは帰れず、京都へ行くつもりで、鈴鹿峠を越えて、大津の宿屋まで来ると、もう行詰まって二人は死ぬ気になった。遺書《かきおき》を書いて、二人の身を、三井寺に近い琵琶湖の淵《ふち》へ投げたが、倉屋敷の船頭に見出されて――男をひとり常久《とわ》の闇に送って自分だけ霊魂を呼び返される。今となっては、死ぬにも死ねず、この生きたぬけがら[#「ぬけがら」に傍点]を、昔の人に遇わせることが、あまりといえば浅ましい。お豊は、しばらく立去り兼ねて涙を押えていましたが、
「お豊さん、お豊さん」
二本杉の後ろに声がある。
「はい――」
お豊は驚いて涙をかくすと、藍玉屋《あいだまや》の金蔵が、いつ隠れていたか杉の蔭からそこへ出ています。
「何か御用でございますか」
「あの、お豊さん、この間わたしが上げた手紙を御覧なすったか」
「いいえ」
「見ない? 御覧なさらない?」
金蔵の様子が、なんともいえず気味が悪いので、
「あの、今日は急ぎますから」
「まあ、お待ちなさい」
金蔵は、お豊の袖を抑《おさ》えて、
「その前の手紙は……」
「存じませぬ」
「その前のは……」
「どうぞ、お放し下さい」
「では、あれほどわたしから上げた文《ふみ》を、あなたは一度もごらんなさらないか」
「はい、どうぞ御免下さい」
袂《たもと》を振り切って行こうとする時に、金蔵の面《かお》が凄《すご》いほど険《けわ》しくなっていたのに、お豊はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として声を立てようとしたくらいでしたが、
「わたしは、日蔭者の身でございますから、御冗談《ごじょうだん》をあそばしてはいけませぬ」
お豊は、丁寧に詫《わ》びをして放してもらおうとすると、金蔵は蛇がからみ[#「からみ」に傍点]つくように、
「お豊さん、お前は、今ここで何をしていた、あの武士《さむらい》は
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