の巒気《らんき》を充分に吸いながら、長者屋敷の方を廻って、何の気もなくこの二本杉のところまで来かかったのでありました。お豊はその足音に気がついて、人目を避けたい身の上ですから、隠れるようにそこを立去ろうとしたが、杉から右の方、二間ばかりのところに、じっと立ち止まって、こちらを見ていた竜之助の面を一目見たが、我知らずまた見直すのでありました。
二人の面と面とが、まともに向き合わせられた時に、お豊は、
「あの、あなた様は……」
何かに圧《おさ》えられたように、こう言ってしまいました。
「あ、関の宿《しゅく》でお見受け申した……」
竜之助は、お豊の姿からちっとも眼をはなさずに、ずっと近寄って来ます。
「はい、あの節は難儀をお助け下さいまして」
「ああ、そうであったか、実はどこぞでお見かけ申したようじゃと、さいぜんからここで考えておりました」
「存じませぬこと故、甚だ失礼致しました」
「いや、拙者こそ……」
竜之助は、いつもの通り感情の動かない顔で、
「しかし、そなた様をこの世でお見かけ申そうとは思わなかった」
「え……」
「あの若い、おつれの方《かた》はどうしました」
お豊は露出《むきだし》にこう言いかけられて面が真紅《まっか》になります。わが隠し事を腸《はらわた》まで見透かされた狼狽《ろうばい》から、俯向《うつむ》いてしまってにわかには言葉も出ない、足も立ちすくんでしまった様子であります。
「まことに、お恥かしゅうございます。それではあなた様には、何もかも」
「いや、何もいっこう知りませぬが、そなた様だけはこの世にない人と思っておりました」
「生きて生《い》き甲斐《がい》のない身でございます、お察し下さいませ」
お豊は、ハラハラと涙をこぼして言葉もつまってしまったのであります。
それを気の毒と見たか、哀れと思ったか竜之助は、
「縁あらば詳《くわ》しいお身の上を聞きもし語りもしましょう。して、そなた様は今どこにおられます」
「はい、この土地の薬屋と申す旅籠屋《はたごや》が伯父に当りまして」
「はあ、薬屋……拙者はこの植田丹後守の邸におります」
そのまま竜之助はサッサと楼門の方をさして通り過ぎてしまいました。
お豊は思いがけぬところで、思いがけない人に会い、思いがけない言葉を浴びせられて、しばらくなんだか夢中になってしまいました。
何という素気《そっけ》
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