あそばして」
「怖いことはない」
 誰であったか、隣にいた人はこの場合にも口を一つ挿《はさ》まなかった。
 芹沢は、も一つ次の間へお松をつれて来て、
「お松、拙者は、お前を贔屓《ひいき》にする」
「有難う存じます」
「お前は木津屋の娘分だと言うたな」
「はい、左様でございます」
「俺のところへ遊びに来い。お前は幾つというたかな」
「あれ、どうぞお放し下さい。お座敷へ出ませぬと叱られまする」
「叱られたら、この芹沢が謝罪《あやま》ってやる。どうも熱い、酒のせいで頬が熱い」
 芹沢は、わざとお松の面《かお》に近く酒にほて[#「ほて」に傍点]った頬を突き出して、
「いつ、太夫のひろめ[#「ひろめ」に傍点]をする、その時は一肌《ひとはだ》ぬいでやるぞ」
「有難うございます、お座敷へ出ませぬと……」
「いや、よろしい」
「いけませぬ、どうぞ、お放し下さい」
「わからぬ奴じゃ、拙者が承知と申すに」
「御冗談《ごじょうだん》をなさいますな」
「冗談ではない」
「お放し下さい」
 お松は、もう一生懸命です。力を極めて芹沢を突き飛ばしてみたところで知れたもの、芹沢の腕は、大蛇《おろち》が兎を締めたようなもの。
「あ、助けて下さい」
 お松は絶え入るばかり叫ぶ。芹沢はちょっと手をゆるめ、
「これ騒ぐな、何も怖いことはないではないか。泣くのか。何も泣くことはなかろう、明日の日、太夫の位を張ろうとするほどのお前ではないか」
「芹沢様とやら、お前は、新撰組の隊長でありながら、わたしのような弱いものを苛《いじ》めてどうなさいます、どうぞお許し下さいませ」
 お松は哀れみを訴えて虎口をのがれようと試みる。
「なんの、お前をいじめるものか、贔屓《ひいき》にしようというのじゃ、な、これから新撰組の隊長が、お前の後楯《うしろだて》になろうというのではないか」
「芹沢氏、何をしておる」
 この時はじめて、室|一重《ひとえ》にいた誰とも知らぬ一人が声をかけた。
「うむ、いや、取調べている」
 芹沢が、お松を見つけて苛《いじ》めつけているのを、さいぜんから見もし聞きもしていながら、今になってただ一語《ひとこと》、
「何をしておる」
 咎《とが》めた声は怖ろしく沈んだ男の声。芹沢も多少きまりが悪く、
「取調べている」
とごまかして、それでもお松を放そうとはしない。
「取調べが済んだら、早う御処分をなさい、大事の前の小事から謀《はかりごと》が破れるわ」
「それもそうじゃ」
 芹沢はしぶしぶと身を起し、
「とは言え、この女、油断がならぬ」
「お斬り捨てなさい」
 こともなげに隣室《となり》から走る一語、お松の骨を刺す冷たさがある。
「斬り捨てるほどの代物《しろもの》でもない」
「然らば拙者が預かろう、貴殿は早く同志を沙汰《さた》して、ずいぶん抜かりのないように。なんにしても相手が相手だ」
「では、この女、しばし君に預ける」
「いかにも、預かり申す」
「大事に扱え、これはソノ、御雪が妹分じゃ、無茶なことをしてはならんぞ」
「ともかくも拙者が、よきように預かる」
「そうか」
 芹沢は残り惜しそうな面《かお》をして、お松を隣室に抛《ほう》り込んで、自分はこの場を外《はず》して行く。
「これ女」
 お松を預かった人は沈んだ声。
「はい」
「おまえは誰かに頼まれて、この隣室《となり》へ来たか」
「いいえ、誰にも頼まれたのではござんせぬ、席の騒がしいのに上気して、気を休めようと思いまして」
「何はしかれ、我々が密談の席へ近寄ったが不運じゃ、わしが赦《ゆる》すまで、ここにおれ」
「はい、決して一言《ひとこと》も、あなた様のお話を伺ったわけではありませぬ故、どうぞお赦し下さいませ」
「いかん、もしお前が声を立てたり、逃げ出そうとしたりすれば、不憫《ふびん》ながらお前を斬る。拙者がこの席を動くまでじっとしておれば、無事にゆるしてやる」
「はい」
 この、お松を預かった人というのは、机竜之助です。お松のためにも兵馬のためにも仇《かたき》たる机竜之助が、芹沢鴨一派の頼みで、これから近藤勇一派を暗殺しようと、その合図が整うて、ここに来合わせたもの。机竜之助は、薄暗い行燈《あんどん》の火影《ほかげ》を斜めに蒼白《あおじろ》い面《おもて》に浴びて、小肴《こざかな》を前にチビリチビリと酒を飲んでいます。
 お松を前に置いて、縛るでもなければ嚇《おど》すでもなく、さりとて冗談《じょうだん》を一つ言うでもなく、竜之助はチビリチビリと酒を飲んでいる。時々酒の手を休めては、眼をつぶってじっと物を考え込む。
「うーむ」
 考え込むと、深い吐息《といき》で、手に持つ猪口《ちょく》がフラフラと傾いて酒がこぼれそうになる。気がついてグッと呑んで、余滴《よてき》をたらたらと水の上に落して、それを見るともなく見つめて無言。
「動けば斬る」
 このものすごい武士の唱えた呪文《じゅもん》で、お松は金縛《かなしば》りにされてしまった。酌《しゃく》をしろとも言わず、また一杯ついで静かに口のところへ持って行き、唇へ当てようとしたが、急に思い返したように猪口を下に置いて、
「うーむ」
と吐息。
 右の手をあげて、頭を押えてうつむく。しばらくして、また屹《きっ》と頭を上げて、猪口をとり、お松の方をボンヤリと見た。
「お前は木津屋の娘じゃそうな」
「はい」
 竜之助は一口飲むと急に咳《せき》をして酒を吐き出し、あわてて猪口を置いて、懐紙《かいし》で四方《あたり》を拭き廻す。
「あの、お武家様」
 お松は一生懸命で口を切る。
「何だ」
「何も存じませぬのでございますから、どうか、お赦《ゆる》しあそばして」
「いかん」
「主人も心配しておりましょうし、何も知らないのでございますから」
 竜之助は、軽く首を左右に振りて答えず。
 さしも騒がしかった今宵の宴会も、存外早く片がついて、その大半は帰った様子。広間の方ではまだ相当の人声であるが、その半分の、人なき間毎《まごと》の寂しさは急に増した。
 お松は、急になんだか身の毛が立つように覚えた。というのは、さいぜん芹沢につかまってからの怖ろしさと、黙って酒を飲んでいるこの怪しい武士の前にいる怖ろしさとは、怖ろしさが違う。
「この人は幽霊ではあるまいか」
とさえ思われたくらいで、席が静かになるにつれて行燈《あんどん》が薄暗くなる、その影で吐息をつきながら、一口飲んでは置き、唇まで持って行っては止め、首を垂れてみては、また屹《きっ》と刎《は》ね返し、座の一隅に向って眼を据《す》えるかと思えば、トロリとしてお松の面を見る。
 その怖ろしさは、総身《そうみ》に水をかけられるようで、ゾクゾクしてたまらないくらいです。
「そ、そこへ来たのは誰だ」
 竜之助は、お松の坐っている後ろの方へ眼をつけて突然こう言い出した。
「え、誰も……どなたも来ておいではございませぬ」
 お松は、身を捻《ね》じむけて、後ろを顧みながら答える。
「そうか、それでよい」
 竜之助はぐったりと首を垂れて、
「うーむ」
という吐息。
「あれ、幽霊が――」
 お松は何に驚いたか――
「ナニ、幽霊?」
 竜之助は勃然《ぼつねん》と、垂れた首を上げる。
「ああ、怖かった、今ここへ――」
「ナニ、今ここへ何が来た」
「女の姿が――」
「女の姿が?」
 竜之助は、左の手を差置いた刀にかけて、室の中を見廻す。切れの長い目は颯《さっ》と冴え返る。
 お松は知らず知らず竜之助の膝に身を寄せていた。
「ハハハ」
 竜之助の笑って打消す声は、かえってものすさまじさを加える。
「なにをばかげた」
 お松は、竜之助の傍を離れ得ない。竜之助の傍を離れられないくらいに怖ろしいものを見た。
「あの、お武家様、昔からこの部屋には幽霊が出るように申し伝えてありまする」
「この部屋に幽霊が?」
 改めて竜之助がこの部屋を見廻すと、「御簾《みす》の間《ま》」であった。
「昔、九重《ここのえ》という全盛の太夫さんが、ここで自害をなされました」
「ふーむ」
「その太夫さんは、やんごとなきお方の落《おと》し胤《だね》、何の仔細《しさい》があってか、わたしはよく存じませねど、お身なりを平素《ふだん》よりはいっそう華美《はで》やかにお作りなされ、香を焚《た》いて歌をお書きになって、懐剣でここを……」
 お松は、自分で自分の咽喉《のど》を指さして戦慄する。
「ふーむ、そんな由緒《いわれ》のある部屋か」
「でございますから、怖ろしゅうございます」
「怖ろしいことはない」
 竜之助は、また首垂《うなだ》れて酒を飲み出す。怖ろしさから傍へ寄ったお松の化粧《けしょう》の香りが紛《ぷん》としてその酒の中に散る。竜之助は我知らず面を上げると、ややあちら向きになっていたお松の、首筋から頬へかけて肉附よく真白なのに、血の色と紅《べに》の色とが通《かよ》って、それに髪の毛がほつれて軽く揺《ゆら》いでいる。
 自分の膝には、お松の手が置かれてある――竜之助はそれを見る。涸《か》れ果てた泉に甘露《かんろ》が湧く。竜之助も前にはお浜をこうして見て、心を戦《おのの》かしたこともあった。
「おお怖い」
 お松は、はじめて自分の所在を知った、その身はあまりに近く、その手が竜之助の膝の上にまであったのに気がついて、きまりが悪い――あわてて身を縮めた時に、竜之助が燃えるような眼をして、自分を見据えていたのでかっ[#「かっ」に傍点]としました。
「お前はいくつになる」
「いいえ」
 お松は、つかぬ返事をする。
「静かになったな」
「あれ、また何か!」
 お松は、床の間の方を見る。
「ナニ!」
 竜之助は猪口《ちょく》を取落した。
 お松がいま言うた九重の亡魂《なきたま》でなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気《あっき》。
 この「御簾の間」は、時としてどこからともなく風が吹いて来る。
 その風がしゅうしゅうとして梁《はり》を渡り、或るところまで来てハタと止まると、いかにも悲しい歔欷《すすりなき》の声が続く。
 誰も、そんなものを聞いたものもないくせに、そんな噂をする者はある、ホントにそれを聞いた人は、命を取られるのだという。お松は今それを聞いた――と自分ではそう信じてしまったらしいのです。
 竜之助は手が戦《おのの》いて猪口を取落した。
 その取落した猪口を拾い取ると、何と思ったか、力を極めて、それを室の巽《たつみ》の柱の方向をめがけて発止《はっし》と投げつける。猪口はガッチと砕けて夜の嵐に鳴滝《なるたき》のしぶきが散るようです。
 と見れば、竜之助の眼の色が変っている。
 竜之助の眼の色は、真珠を水に沈めたような色です。水が澄む時は冴《さ》える、水が濁る時は曇る。冴える時も曇る時も共に沈んだ光があった。今はその光が浮いて来た。
 猪口の砕けて飛んだ室の中を、ここと目当のなく見廻した時の眼は、かの音無しの構えにとって意地悪く相手を見据えた時のような落書きがなく、不安と、そうして散漫とがようやく行き渡る。
「うむ――」
 額を押えて力なく折れた。
「どうかなさいましたか」
「頭が痛い」
「それは困りました」
「眼が廻る」
「お薬を差上げましょう」
 お松はふいと立った。
「いや、それには及ばん」
「それでは、お冷水《ひや》を」
「何も要《い》らん」
 竜之助は額を押えて薬も水も謝絶《ことわ》る。しかしながらよほどの苦しみには、うつむいた面《かお》が下るばかりです。
 お松は、この時ふいと気がついた、逃げるならこの間《ま》である――
「待て!」
 うつむいた面がバネのように上ると、竜之助は刀を取っていた。
「逃げるか!」
「いいえ」
「そこへ坐れ」
 その眼で睨められた凄《すご》さ。この人の身の廻りには、魔物のように物を引く力がある。夢で怖《こわ》いものに追われたように、逃げようとすれば足がすくむ。
「うーむ」
 竜之助は、また額を押えて唸《うな》る、そのうなり声を聞くと地獄の底へ引き込まれそうです。
「ああ――」
 竜之助は、そろそろと面を上げて、
「これこれ女」
 思いのほか静かな声で、
「妙な気持にな
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング