様を峠の天辺まで背負《しょ》って行ってやるべえ」
「そいつは面白い、この石も、お前に担《かつ》いで来てもらったのだから、御尊体も、お前に持って行ってもらうことにしよう」
「有難え、有難え、そうすると、俺も功徳《くどく》になる」
「結構結構、南無延命地蔵大菩薩《なむえんめいじぞうだいぼさつ》、おん、かかか、びさんまえい、そわか――」
「方丈様」
「何だ」
「あの地蔵様の歌のつづきを教えてもらいてえ」
「和讃か」
「西院河原地蔵和讃《さいのかわらじぞうわさん》、空也上人御作《くうやしょうにんおんさく》とはじめて――
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これはこの世のことならず、
死出《しで》の山路《やまぢ》の裾野《すその》なる、
さいの河原の物語、
聞くにつけても哀れなり、
二つや三つや四つ五つ、
十にも足らぬみどり子が、
[#ここで字下げ終わり]
 ここまで覚えたからその次を」
「よしよし、わしが唱《とな》えるから、あとをつけろや」
 東妙和尚は石鑿《いしのみ》を地蔵の御衣のひだ[#「ひだ」に傍点]に入れて直しながら、
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さいの河原に集まりて、
父こひし、母こひし、
こひし、こひしと泣く声は、
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 与八はあとをつづけて、
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さいの河原に集まりて、
父こひし、母こひし、
こひし、こひしと泣く声は、
[#ここで字下げ終わり]
 和尚は先へ進んで、
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この世の声とはことかはり、
悲しさ骨身《ほねみ》を透《とほ》すなり、
[#ここで字下げ終わり]
「方丈様、なんだか悲しくなっちまった」
 与八の眼には涙がいっぱいです。
「有難い地蔵様のお慈悲じゃ、涙もこぼれようわい。我々|凡夫《ぼんぷ》の涙は、蜆貝《しじみがい》に入れた水ほどのものじゃ、地蔵様の大慈大悲は大海の水よりも、まだまだ広大。それ我々凡夫は、ちょっとしたことにも悲しいの、嬉しいの、すぐ安っぽい涙じゃが、この無仏世界の衆生《しゅじょう》の罪障《つみ》をごらんになる大菩薩の御涙というものは、どのくらいのものか測《はか》り知れたものでない。南無延命地蔵大菩薩、おん、かかか、びさんまえい、そわか」
「そういえば、そうだなあ。俺《わし》らは一人の子供の身の上でも心配すると泣き切れねえことがある、お地蔵様がこの世間をごらんになったら、さぞ辛《つら》いことだんべえ」
「そうだ、そうだ、それから次を唱えて聞かすぞ――」
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かのみどり子の所作《しょさ》として、
河原の石を取り集め、
これにて回向《ゑかう》の塔を組む、
一|重《ぢゅう》、組んでは父のため、
二重、組んでは母のため、
三重、組んでは古里《ふるさと》の、
兄弟わが身と回向して、
昼はひとりで遊べども、
日も入相《いりあひ》のその頃は、
地獄の鬼が現はれて、
やれ汝等は何をする、
娑婆《しゃば》に残りし父母は、
追善作善《ついぜんさぜん》のつとめなく、
ただ明け暮れの嘆きには、
むごや悲しや不憫《ふびん》やと、
親のなげきは汝等が、
苦患《くげん》を受くる種となる、
われを恨むることなかれと、
くろがねの棒をさしのべて、
積みたる塔を押しくづす、
[#ここで字下げ終わり]
「どうじゃ与八、怖ろしいことではないか。頑是《がんぜ》ない子供がやっと積み上げた小石の塔を、鉄の棒を持った鬼が出て来て、みんな突きくずすのじゃ。なあ、これを他人事《ひとごと》と思ってはいけないぞ、追善作善のつとめというをせぬ者には、みんな鬼が出て来るじゃ、何をしてもみな成り立たないで、みんなくずれ出すのじゃ。よいか、他人事と思ってはいけないぞ」
「あに他人事と思うべえ、いちいち腹の底まで沁《し》み込むだ、有難え、有難え」
「さあ、その次だ――
[#ここから2字下げ]
その時、能化《のうげ》の地蔵尊、
ゆるぎ出でさせ給ひつつ、
汝等いのち短くて、
冥途《めいど》の旅に来《きた》るなり、
娑婆と冥途は程遠し、
われを冥途の父母と、
思うて明暮《あけく》れ頼めよと、
幼き者を御ころもの、
もすその中にかき入れて、
哀れみ給ふぞ有難き、
いまだ歩まぬみどり子を、
錫杖の柄にとりつかせ、
忍辱慈悲《にんにくじひ》のみはだへに、
抱きかかへ撫でさすり、
哀れみ給ふぞ有難き――
[#ここで字下げ終わり]
 南無延命地蔵大菩薩、おん、かかか、びさんまえい、そわか」
「郁坊、よく聞いておけ――他人事《ひとごと》では無《ね》え」
 与八はホロホロと涙をこぼして、背の郁太郎を揺り上げる。

         十四

 今日は島原の角屋で大懇親会。
 それは新撰組と大阪の大相撲とが大喧嘩《おおげんか》をしたその仲直り。
 小野川秀五郎の口の利き方がよかったので、喧嘩の仲直りができた上に、新撰組が相撲の贔屓《ひいき》となり、その力で、近々|壬生寺《みぶでら》に花々しい興行を催すという。
 近藤勇と芹沢鴨とが正座にいるところへ、小野川秀五郎は盃をもらいに出かけて気焔《きえん》を吐いている。
 この時、小野川はもういい年であったが、気負《きお》いの面白い男でよく飲む。
「小野川、貴様も大分いけるようだが、年をとったな」
 近藤勇が言う。
「どう致して、相撲に年をとるというはごわせぬ」
「負惜しみを申すな、争われぬは額《ひたい》の皺《しわ》と鬢《びん》の白髪《しらが》。どうだ、一番おれと腕押しをやろうか」
「いやはや、近藤先生、剣にかけたら先生が無敵、力ずくではこの秀五郎が前に子供でがす」
 小野川はこう言いながら、前にあった小皿をとってバリバリと噛《か》み砕《くだ》き、
「歯の力だけが、こんなもんじゃ」
「愉快愉快、も一つ飲め」
 近藤勇は、小野川の老いて稚気《ちき》ある振舞《ふるまい》を喜んで話していると、芹沢は、さっきから席を周旋して廻るお松の姿に眼をつけて、
「いま銚子《ちょうし》を持って立った、あの可愛い女、あれはどこの子だ。ナニ、木津屋の養女だと。そうか、ゆくゆくは太夫にでもなるか。拙者が贔屓《ひいき》してやるからここへ来いと言え」
 お松は今日の忙しさに加勢に頼まれて来ていたのを、
「お松さん、あの正面の怖《こわ》い面《かお》したお客様が、お前に御用だと申しておりますが」
 囁《ささや》かれて、お松は、
「ただいま参りまする」
 この時、歌うもの踊るもの、相撲を相手に腕相撲をするもの、芸子《げいこ》へかじりついて騒がすもの。
「おい、庭で一丁《いっちょう》」
 新撰組の沖田|総司《そうじ》は、力自慢が嵩《こう》じて相撲を一人ひっぱり出し、庭へ下りて四股《しこ》を踏む。
「沖田川、しっかり!」
 席は混乱して、みな縁先へ集まる。
 芹沢鴨は、それには眼もくれず、
「お前は美《よ》い女《こ》じゃ、ここへ坐れ」
 目を細くして、前へ来たお松の面を見る。
「御免あそばせ」
 お松は盃をいただいて下に置くと、
「わしは芹沢じゃ、たびたびここへ遊びに来るが、お前の姿を見るは初めてだ、名は何と申す」
「松と申します」
「年はいくつだ」
「当ててごらんあそばせ」
「十六から八までの間、違いなかろう」
「そんなことでございましょう」
「生れはどこじゃ」
「西国でござります」
「西国は」
「巡礼の札所《ふだしょ》でございます」
「なに?」
 お松も人に慣れて、このごろではあまり物に怖《お》じなくなった。そこへ、
「芹沢先生、お流れを頂戴致しとうござんす」
 罷《まか》り出たのは小野川秀五郎。
「やあ、小野川か、それ」
 盃を抛《ほう》ってやった。
「時に芹沢先生」
 小野川は芹沢の前へ膝をすすめて、
「承われば先生には水戸の御出生。水戸と聞いて、この秀五郎もお懐《なつか》しゅうござんすわい」
「貴様も水戸生れか」
「生れは違いますが、畏《おそ》れながら烈公様に、一方ならぬ御贔屓《ごひいき》を受けておりまするからに、水戸と承われば、どうやら御主筋《おしゅすじ》のような気が致しまするで」
「なるほど、貴様は烈公の御機嫌伺いに出かけるそうな、ちっとは儲《もう》かるか」
「儲かると言わんすのは……」
 小野川はムッとする。
「うむ、水戸はいったい吝《けち》なところじゃ、家中《かちゅう》を廻り歩いてもトンと祝儀《しゅうぎ》が出まい」
「芹沢先生、ちっと話が違います」
「違うとは何だ」
「世間には左様な真似《まね》をして歩くものがないとは限らん、わしは、それが嫌《きら》いじゃ」
「そうか、貴様は嫌いか」
「水戸様からいただいたお盃には、お手ずから草体《そうたい》で『水』と書いてござんすのじゃ」
「それがどうした」
「それが、秀五郎忠義の看板でござります」
「うむ、豪《えら》い奴だな、貴様は」
 芹沢は皮肉な言葉で、意地悪く小野川をひやかそうとする。このたびの喧嘩の落ちは近藤に取られて、それからメッキリ芹沢の人望が落ちた。それが癪《しゃく》にさわって芹沢は、今宵《こよい》も小野川に突っかかってみる、小野川も虫がいず無言で白《しら》けていた時、
「小野川、ちとこっちへ来い」
 二三枚離れていた土方歳三が小野川を呼びかける。

 お松は、座敷の人混《ひとご》みに上気して、ひとり誰もいない室へ来て、ホッと息をついて、熱《ほて》る頬を押えています。と、次の間で人のささやく声、
「よいか」
「うむ」
 念を押した声と、頷《うなず》いた声。
「近藤の馴染《なじみ》という女は誰だ」
 誰とも知れぬ人の声。
「御雪《みゆき》、木津屋の御雪というのだ」
「ナニ、木津屋の御雪……」
 お松は、聞くともなしに耳に入った名は自分の姉分になる御雪太夫のことですから、思わず身が固くなる。しかもその話の主《ぬし》の一人は、さいぜん自分を呼びつけた芹沢鴨のようです。
「それから、吉田氏」
というのは、やっぱり芹沢鴨に相違ない。お松は次の間の私々話《ひそひそばなし》をいやでも立聞きしなければ済まないことになったので、息を殺していると芹沢は、
「いよいよ近藤を片づけたら、次には君に引出物《ひきでもの》がある」
「引出物とは何だ」
「兵馬の首だ、宇津木兵馬の首を拙者が手で取ってやる」
「兵馬――なんの」
 芹沢でない一人は、冷やかに言い切った。
「君は兵馬を小倅《こせがれ》と侮《あなど》っているが、なかなかそうでないぞ、あれほどに腕の立つ奴は、新撰組にも幾人とない」
「…………」
「始終、君をつけ覘《ねら》っている、兵馬一人ある以上は、君の身は危ない」
「今、どこにいる」
「つい、この近いところにいる」
 広間の方で哄《どっ》と喊声《かんせい》が起る。ここで二人の私話《ささやき》は紛《まぎ》れて聞えなかったが、暫くして、
「よし、やがて合図をする、相手が相手だからずいぶん抜からず」
 芹沢はこう言って席を立とうとするらしい。
「念には及ばぬ」
 やがて、刀を提げる音、サワサワと鳴る袴《はかま》の音。
 一旦立ち上った芹沢は、
「今いう御雪というのは、素敵な美人じゃ、近藤を片づけたら、君に取持とう、君も女房が死んで淋しかろうからな」
 怖ろしい人々である。どうやら近藤勇を殺し、兵馬を殺し、近藤の思い者、御雪太夫を横取りする……お松はこの上もない恐ろしい相談を聞いてしまった。
 幸か不幸か、芹沢はお松が潜《ひそ》んでいた方の襖《ふすま》を颯《さっ》とあける。
「誰だ、そこにいるのは!」
「はい、私でござります」
 お松は逃げ場を失ってしまった。
「何をしている」
「あの、つい気分が悪いので、ここで息を休めておりました」
 芹沢は、近寄って、
「お松ではないか」
「はい」
「うむ」
 芹沢は思案して、跪《ひざまず》いているお松の手をとって、
「拙者と一緒に来い」
「まだ、あの、お座敷の方に用事がありますから」
「用事があってもよい、一緒に来い」
 お松は、手をとられて、羽掻締《はがいじ》めのような形。芹沢は左の手に刀、右の小脇に軽々とお松を抱えて、
「聞いたな」
「いえ、なんにも」
「聞いてもよいわ、お前ならば聞かれても大事ない」
「どうぞ、御免
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