先はお前の心任《こころまか》せ、江戸へ帰ろうと、こちらに留まろうと、文句は言わないつもりだが」
「身受けと申しましても、おじさん……」
「お金のことなら心配しなくてもいい、それはいくらかかろうとも承知の上だ」
「有難うございます」
 お松は、また涙を拭く。身受けをされて自由になることが、お松にとって嬉しくないことはない、もし帰るべき家があり、手をとって泣き合うべき親兄弟があるならば一層のこと。七兵衛にしても、この娘をつれて帰って、引合せてやる縁者《えんじゃ》があるとか、思い合う男に添わせてやるとかいう的《あて》があるならば、張合いがあるべきところだけれども、これを伯母のお滝に返してやろうか、または妻恋坂のお師匠様に預けようか――危ない危ない、ここに置くよりも危ない。そんなら、自分が引取って世話をしてやろうか――いつ首が飛ぶか知れない身、なお危ない危ない。
「おじさん、わたしは、もし身受けをしていただくようになりますれば、あの沢井という山の中へ引込んで暮します」
「なんだ、沢井へ……沢井の何というところへ」
「あの万年橋という橋の下に、水車の小屋がありますそうな、そこでお米を搗《つ》いたり、粉を振《ふる》ったりして稼《かせ》ぐつもりでございます」
「万年橋の水車で……あそこに知人《しりびと》でもあるのかな」
「あい、約束した人が……約束と申しますと、異《い》なことに聞えましょうけれど、わたしを親身《しんみ》にしてくれた人が待っているはずでございます」
 この女を待っているというのは何者、約束した人とは誰。はたしてそんな人があるならば頼もしい。

         十

 京に多き物、寺、女、雪駄直《せったなお》し。少なき物、侍、酒屋、けんどん屋、願人云々《がんにんうんぬん》。それがこのごろはどこへ行っても、肩ひじ怒らした侍ばかり、多いものの二番目に数えられた女の影がかえって道の通りには甚だ少ない。
 島原の廓《くるわ》、一貫町を出てから七兵衛は胸算用《むなざんよう》をはじめました。
 お松を身受けするのに、費用が四百両の頭を出る、百両を手金《てきん》に置いて、あとの三百五十両、それをこれから工面《くめん》にかかる、猶予《ゆうよ》を三日間とっておいた。
 千本通《せんぼんどおり》で暮六《くれむ》ツが鳴る。
 道すがら町と人家の形勢を見て、そのつもりもなく壬生《みぶ》の地蔵の前まで来ました。地蔵へ心ばかりの賽銭《さいせん》を投げ、引返して表へ出ると例の南部屋敷の前。
「誰の邸だろう、大名にすればたしかに十万石以上」
 壬生の村は、もう暗くなる。機《はた》を織る筬《おさ》の音が、この乱世に太平の響きをさせる。知らず知らず綾小路《あやこうじ》を廻って見れば、田圃の中には島原の灯《ひ》が靄《もや》を赤く焼いている。お松はあの中で何を思っているだろうと、七兵衛もそぞろ物の哀れを感ずるのであります。
 七兵衛は、いま壬生の南部屋敷から程遠からぬところの、とある一ぜん飯屋で飲んでいる。
「親方、いい酒だな」
「へえへえ」
「この鰻《うなぎ》は、どこでとれるのかね」
「それは若狭鰻《わかさうなぎ》でございます」
「これも、なかなかうまいね」
「へえ、なるたけいい物を売らんと、御近所が喧《やかま》しゅうございます」
「なるほど、御近所にはだいぶ宏大なお邸があるようだ、お出入りがきついから、品もごまかしが利《き》かないのだね」
「まあ左様なわけでござりまする」
 酒もよいし、鰻もよいから七兵衛も、陶々《とろとろ》とよい気持になって主人と話し込んでゆく。
「お客様はなんでございますかい、お地蔵様へ御参詣《ごさんけい》で」
「左様、今お地蔵様へ参詣して帰りがけさ」
「今年は、どうですか、お地蔵様もこの分では狂言がお流れになりそうで」
「狂言とは何だね」
「ナニその、壬生狂言と申しましてな、近いうち面揃《めんぞろ》えがござりまする。当年は、この通り乱世でございますから、どうなることでございますか」
「なるほど壬生狂言とやら、国でも名前だけは聞いていましたが」
「なかなか風《ふう》が変って、面白いものでございますよ。お客様、永逗留《ながとうりゅう》でございましたら、ぜひ見て行かしませ」
「それは話の種に見物がしておきたいものだ」
「それからな、あの島原という傾城町《けいせいまち》に一年一度の太夫道中がありますで、これがまた、大した見物《みもの》でございます」
「なるほど、なるほど。花魁《おいらん》の道中は、わしも一度、江戸の吉原で見ましたっけ。こちらのは、また変った趣向でもありますかな」
「ナニ、同じようなもので。わしどもは江戸のは錦絵《にしきえ》で見ましたが、あちらの方が何を申しても規模は大きいには大きいことでござりましょうが、道中の本家はやはりこの島原だそうで、見物も夥《おびただ》しいことでござんすわい」
「なるほどな」
 七兵衛はここで時間を少しよけいに費《ついや》したいのだから、わざと気長く構えて、親方と話をしているところへ、
「御免よ」
 小間物《こまもの》の荷を背負った町人風の男が入って来ました。
「爺《とっ》さん、今晩は」
 荷物を手近へ卸して腰をかけた小間物屋は、腰から煙草入を取り出しながら横目で七兵衛をジロリ。
 七兵衛も、この小間物屋をひょいと見る、おたがいに目つきが変だと思います。
「これは福造どの、今日は遅いことじゃな」
 飯屋の親方は、心安そうな口の利き方。
「今日は、南部のお屋敷で品物を取拡《とりひろ》げ、それがため暇《ひま》をとりましたわい」
「はてな、南部のお屋敷へ小間物屋とは、ちとお門《かど》が違いそうじゃがな」
「そのお門違いのところで思いがけない売上げを見たものさ、だから商売は水物《みずもの》だよ」
「なるほど、あのお屋敷へ小間物が売れようとは、誰も思いがけない、浪人衆が小間物とは、坊さんに簪《かんざし》のようなものかねえ」
「あれでお前、表は厳《いか》めしそうなれど、裏からは、祇園、島原あたりから市兵衛駕籠が乗り込むというものさ」
「そうですかな」
 親方は感心したような顔をしながら銚子《ちょうし》を持って来る。
「爺さん、やっぱり、鰻《うなぎ》がいいね」
 小間物屋は、グビリグビリとはじめて、親方との話が途切《とぎ》れると面《かお》を七兵衛の方へ持って来て、
「少し曇ってきたようですね」
「そうですか、晴れていましたがね」
 七兵衛と小間物屋と話のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]が出来る。
「降るようなこともなかろうが、いったい京は、江戸よりも天気が変りっぽいようですな」
「そうですかな、わしは京は、初めてでございまして」
「失礼ながら関東はどちらで」
 冒頭《のっけ》に関東と言い出されたので、七兵衛は小間物屋の面を見ながら、
「武州でございます」
「そうでござんしょう、お言葉と言い、御様子と言い、武州もお江戸近く、次第によったら甲州筋……どうでござんすな」
 七兵衛は再び、この男の面を見直します。どうも眼つきが小間物屋にしては強過ぎる、関東の者か上方の者か、そのくらいの区別は誰にもつくが、江戸近く、甲州筋、そこまではちと念がいる。
「よく当りました、八王子でござります。して、わしの生国《しょうごく》まで見抜きなさるお前さんは――」
「わしかね、わしも実は関東さ、常州水戸……ではない土浦生れが流れ流れて、花の都で女子供を相手にこんな商売をしていますよ。失礼、一献《ひとつ》」
 猪口《ちょく》を差出した手を見ると、竹刀《しない》だこ[#「だこ」に傍点]。七兵衛なにげなくそれを受けて、
「これはこれは」

 小間物屋は七兵衛と一献《いっこん》を取交《とりかわ》して出て行ってしまったあとで、七兵衛はようやく飯を食いはじめながら、
「親方、その南部屋敷てえのは、いったい何だね」
「南部屋敷というのは、その壬生のお地蔵様の前にある大きなお邸、いま浪人衆が集まっておいでなさるあれでございます」
「お地蔵様の前……」
「黒い御門があるでございます」
「なるほど」
 七兵衛が目星《めぼし》をつけておいたのはその邸。
「で、その浪人衆というのは」
「近ごろ関東からお上りになりました新撰組と申しまして、つまり、このごろ諸国から上って参る浪人をつかまえる浪人衆でございます」
「浪人をつかまえる浪人?」
「でございますから、肩ひじの、こんなに張った、腕っ節の、こんなに太い、豪傑揃《ごうけつぞろ》いでございます。わしどもも、その浪人衆の御贔屓《ごひいき》を受けているのでございますよ」
「で、その頭《かしら》は何という方ですかね」
「お頭は芹沢様に、近藤様」
「芹沢様に近藤様……お大名ですかね」
「なに、お大名でも旗本でもありません、どちらも浪人衆で」
「お名前は、何とおっしゃる」
「芹沢様の方が鴨」
「鴨ですって? 妙なお名前ですね」
「全く妙なお名前ですよ」
「それでは、近藤様の方はあひる[#「あひる」に傍点]とでも申しますかね」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません、そんなことが浪人衆の耳に入ると、斬られちまいますぜ。近藤様の方は、だいぶ威勢のいいお名前だ、イサミ、勇とおっしゃいます」
「なるほど、イサミ……待て待て……近藤勇――お名前を聞いている。それで何かい、親方、その芹沢様と近藤様と、お二人が頭で、浪人衆がどのくらいおいでなさるかね」
「そうさね、どのくらいと言って、わしらには確《しか》とわかりませんが、ちょっと見たところで七八十人、それにあちらこちらに出張所というものもあるようでござんすから、みんなではなかなかの人数でございましょう」
「お扶持《ふち》はどこから出るんだね」
「会津様から出るのでございます。そのほかにもだいぶ収入《みいり》がおありなさるようで、茶屋や揚屋で、あのお仲間がお使いなさるのは大したもの、景気が素敵《すてき》によいのでございます」
「うむ――そうかね」
 話はここで途切れて、どこかの寺院《てら》の鐘が鳴る。
「はてな」
「四ツでございます」
 七兵衛は飯を食い終って、代を払い、この店を出て壬生村の闇《やみ》に消える。
 七兵衛は、地上を縦に走ると共に、横に走ることもできたという。横に走るとは、塀なり垣根なりを足場として、地上とは身を平行にして或る距離を疾走《しっそう》する。また、逆に天地返しの歩き方というのをやる。天地返しとは、天井へ足をつけて、頭を地上にぶらさげて歩く、壁を直角にかけ上る気合で天井を一歩きして来るものであろう。
 七兵衛は子供の頃から、屋《や》の棟《むね》を歩くのが好きであった。自分の家の屋の棟を歩き終ると、隣りの屋根へ飛び移って、それからそれと宿《しゅく》の土を踏まずに歩いていた。長い竿《さお》で追いかけられる、その竿をくぐり抜けて、木の枝に飛びつき、塀の峰を走る。八方から竿でつきかけて、ついに足を払い得たものもなかったそうです。
 月の宵《よい》、星の夜、真暗《まっくら》な闇の晩、飄々《ひょうひょう》として七兵衛が、この屋の棟遊びをやらかすことがある。秩父颪《ちちぶおろし》の烈しい晩など、サーッと軒を払って散る淅瀝《せきれき》の声が止むと、乾き切った杉の皮がサラサラと鳴る。ト、ト、トと、なずなを刻《きざ》むような音を屋根裏で聞くと、老人は眉をひそめて、
「七公、また悪戯《いたずら》をはじめやがったな」
 七兵衛は、地上の物をとることが上手《じょうず》なように、水の中の物をもよく探ることができた。
 七兵衛が、多摩川の岸の岩の上に立って、水の中を見ながら、それそこには鮎《あゆ》がいる、山魚《やまめ》がいる、かじか[#「かじか」に傍点]がいる、はや[#「はや」に傍点]がいる、おこぜ[#「おこぜ」に傍点]がいる、ぎんぎょ[#「ぎんぎょ」に傍点]がいる。それそっちへ行った、それこっちへ来たと独言《ひとりごと》を言っている。誰が見てもそんなものは一つも見えないのに、熟練な漁師が見てさえも見えないのに、岩の上からおりて来て、手を或る石の下へ入れると、その言った通りの方角で、言っ
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