ョッとしたようでしたが、苦笑《にがわら》いをして、
「宇津木君か」
「井村君、君にちょっと尋ねたいことがある」
「何だ」
「近頃、君の方の手で女を取調べたことがあるか」
「知らん」
知らんというけれども、井村の言いぶりが狼狽《ろうばい》している。
新徴組には芹沢派と近藤派とがある。両派の暗闘は容易なものではない。宇津木兵馬はどちらかと言えば近藤派で、芹沢の人物を好いてはいない、それに机竜之助を芹沢が隠しているということを聞いているから、今は芹沢が的《まと》のようになっている。
兵馬は、これから一層、芹沢の一挙一動に注目することに決心し、今日も夕方、かの井村と、も一人の新参浪士をつれて芹沢が屋敷を出かけたのを、兵馬はそっとあとをつけて行きます。
彼らは本国寺の寺中《てらうち》へ入って行くから、兵馬は寺の門を潜《くぐ》らず、しばらく遠のいて、門の中を見張っていると、ほどなく井村と新参の浪士と二人は面の相好《そうごう》を崩して門を出て来ましたが、彼等は壬生へは引返さないで、本願寺裏手の方を四辺《あたり》憚らず笑い興じながら島原口まで来ました。
これからは田圃《たんぼ》――五六丁を隔ててその田圃の中に一|廓《かく》、島原|傾城町《けいせいまち》の歓楽の灯《ひ》は赤く燃えております。
「やあ、あの灯《ひ》を見ると胸が躍《おど》るわ。しかし我々共の楽しみは罪が浅い、隊長のはなかなか罪が深いのう」
井村のこの声がひとしお大きく田圃の中で響き渡ると、
「アハハハハ」
ふたり声を合せた高笑いで、あとはまた断続してよく聞き取れない。新参の浪人がふいと後ろを振返り、
「誰か来るようじゃ」
井村の耳に囁《ささや》くと、歩みをとどめて、
「うむ、足音がする」
島原から一貫町《いっかんまち》までは人家がない、人が来れば見通しがつく。
「島原通いであろう、一番、嚇《おど》してみようか」
人を嚇してみるにはよいところ、朱雀野《すざくの》の真只中《まっただなか》、近来ここでは追剥《おいはぎ》と辻斬《つじぎり》とが流行《はや》る、遊客は非常な警戒をした上でなければ通らないところです。
兵馬は二人の立ち止まったところへ押しかけて、
「ちょっと物をお尋ね申す、壬生の地蔵へはどう参りましょうな」
「ナニ、壬生の地蔵へ――」
「壬生の地蔵寺から南部屋敷の方へは?」
「南部屋敷を尋ねらるる、どうやらその声は聞いたようじゃ」
これは井村の声で二足三足、兵馬の方へ近寄って来ます。
「やあ、宇津木君ではないか」
「その声は井村氏か」
井村は、こんなところで兵馬に遭《あ》うことをまことに意外と思い、同時に不安が湧いて来るらしく、
「どうして今頃、こんなところを……貴殿にも似合わない」
「七条へ参っての帰りがけ、つい道に迷うて」
「ハハ、なるほど、この道は貴公らの迷うべき道じゃ。ここを真直ぐに行くと、あの明るい里。あれ、微かに三味太鼓の音も聞ゆるは、あれが我々共の極楽世界。君のたずぬる壬生のお寺は、あれあの高い屋根の棟《むね》がそれよ」
田圃の中に、黒く高く湧き立った地蔵寺の大屋根を指す。
「あれが地蔵寺……なるほど、そういえばここが島原、それでわかった」
「待て待て、宇津木」
「何か用か」
「これから直ぐに壬生へ帰るか」
「帰る」
「それはいかん、ここまで来ては、もう逃がしっこなし」
井村は兵馬の袖を捉《とら》えて、非常に気味の悪い言葉遣いで、
「つき合え、一緒に来い」
「どこへ」
「恍《とぼ》けるなよ、我々が行くところへ来い」
「いや、拙者は、そうしてはおられぬ」
「わからずやを言うなよ、隊長の近藤君や、芹沢君はじめ、みんなこの島の定連《じょうれん》なのじゃ、貴様、若いくせに、ここまで来て素通《すどお》りという法があるか」
「拙者は左様な粋人《すいじん》とは違う」
「いや、そうでない、貴公のようなのが、女には騒がれる。都へ来て島原の太夫《たゆう》を知らんというは話にならんテ、なあ溝部《みぞべ》」
「それに違いない」
「それ見ろ、一度この中へ入って済度《さいど》を受けてみんことにゃ、世の中の人情というものの極意《ごくい》がわからん」
壬生と島原とは呼び交わすばかりの間である。兵馬としても、ここに島原のあることを知らないはずはないが、井村はしきりに兵馬の袖を引張って放しません。
その言うがままに行ってみたらどうだろう、そうして彼等の為すがままに任せておいて、それから、何かを機会に調べてみたら、それも妙ではあるまいか。
兵馬は、ふと、こんなことを思い出して、強《し》いて袖を振り放そうとしないうちに、もう遊廓《ゆうかく》の一町ほど手前まで来てしまいました。
「よし、行くところまで行ってみよう」
ついに大門《おおもん》の前まで来た。
「これ見ろ宇津木、ここが大門で、それここに柳があるが、これが有名な出口の柳というものじゃ。入口にあっても出口という、これいかに。島原七不思議の第一はこれじゃ。中は昼より明るいぞ。一足入れば歌舞の天女、生身《しょうじん》の菩薩《ぼさつ》が御来迎《ごらいごう》じゃわい」
島原|傾城町《けいせいまち》の夜は盛んなる眩惑《げんわく》を以て兵馬の眼の前に展開される。
七
島原の誇りは「日本|色里《いろざと》の総本家」というところにある、昔は実質において、今は名残《なご》りにおいて。
今の島原は全く名残りに過ぎない。音に聞く都の島原を、名にゆかしき朱雀野《すざくの》のほとりに訪ねてみても、大抵の人は茫然自失《ぼうぜんじしつ》する。家並《やなみ》は古くて、粗末で、そうして道筋は狭くて汚ない。前を近在の百姓が車を曳いて通り、後ろを丹波鉄道が煤煙《ばいえん》を浴びせて過ぐる、その間にやっと滅び行く運命を死守して半身不随の身を支えおるという惨《みじ》めな有様であります。
安永から天明の頃、江戸の俳諧師《はいかいし》二鐘亭半山《にしょうていはんざん》なるものの書いた「見た京物語」には、
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「島原はまはり土塀《どべい》にて甚だ淋し、中《なか》の町《ちょう》と覚しき所、一膳飯《いちぜんめし》の看板あり」
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とあって、それよりやや降《くだ》り、
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「島原の廓《くるわ》、今は衰へて、曲輪《くるわ》の土塀など傾き倒れ、揚屋町《あげやまち》の外は、家も巷《ちまた》も甚だ汚なし。太夫の顔色、万事祇園に劣れり」
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とは、天保の馬琴《ばきん》が記したものにある。
ましてや、それよりまた小一世紀を隔つる大正の今の時、問題の土塀もくずれ果てて跡方もなく、小店《こだな》には、日々に空家《あきや》が殖《ふ》えて、大店《おおだな》は日に日に腐ったまま立ち枯れて、人の住まなくなった楼の塗格子《ぬりごうし》や、褪《さ》め果てた水色の暖簾《のれん》に染め出された大きな定紋《じょうもん》が垢《あか》づいてダラリと下った風情《ふぜい》を見ると、「嵯峨《さが》や御室《おむろ》」で馴染《なじみ》の「わたしゃ都の島原できさらぎ[#「きさらぎ」に傍点]という傾城《けいせい》でござんすわいな」の名文句から思い出の優婉《ゆうえん》な想像が全く破れる。涙ながらに「日本色里の総本家」という昔の誇りを弔《とむろ》うて、「中《なか》の町《ちょう》」「中堂寺《ちゅうどうじ》」「太夫町《たゆうまち》」「揚屋町《あげやまち》」「下《しも》の町《ちょう》」など、一通りその隅々まで見て歩くのはまだ優しい人で、「ナンダつまらない」その名前倒れを露出《むきだし》にしながら、とにかくここで第一の旧家といわれる角屋《すみや》の前に足をとどめてみても、御多分《ごたぶん》に洩れぬ古くて汚ない構えである。侮《あなど》り切っていきなり玄関から応接を頼むと、東京では成島柳北《なるしまりゅうほく》時代に現われた柳橋《やなぎばし》の年増芸者《としまげいしゃ》のようなのが出て来て、「御紹介のないお客さまは」と、極《きわ》めてしとやかに御辞退を申し上げる。
これは、物に慣れない遊子に対する特殊の待遇ではなく、もし血気に逸《はや》る半可通《はんかつう》が新式の自動車を駆《か》り催して正面から乗りつけて行っても、「御紹介のないお客様は」の一点張りで、その来る者の、自動車であろうと、金鎖《きんぐさり》であろうと、パナマ帽であろうと更に驚かないのですから、ここにおいて「島原|未《いま》だ侮り易《やす》からず」と最初の独断をやや悔いはじめるものもあるし、頑迷いよいよ度すべからず、これだから「滅びゆく島原」だと匙《さじ》を投げる者もある。
幸いに、許されて中に入ることの光栄を得たものにしてからが、まず何となしにばかばかしくなる。荒削《あらけず》りの巨大な柱が煤《すす》けた下に、大寺院の庫裡《くり》で見るような大きな土竈《へっつい》がある、三世紀以前の竜吐水《りゅうどすい》がある、漬物の桶みたようなのがいくつも転《ころ》がっている。何のことはない、二十代もつづいた大庄屋《おおしょうや》の台所へ来たようなものです。
おまけに、長押《なげし》には槍、棒、薙刀《なぎなた》のような古兵具《ふるつわもの》が楯《たて》を並べ、玄関には三太夫のような刀架《かたなかけ》が残塁《ざんるい》を守って、登楼の客を睥睨《へいげい》しようというものです。
恐る恐る座敷へ通って見ると、京都式の天井は低く、光線のとり具合は極めて悪い。しかしながら、そこにもここにも底光《そこびか》りがある、低くて暗いのは必ずしも浅くて安っぽい意味でない、というような感じも幾分か出て来て、そうしておもむろに間毎《まごと》の襖《ふすま》や天井などについて説明を求めてみると、前の柳北時代の柳橋の老妓のようなのが(多分、仲居《なかい》の功労を経たものであろう)別に誇るような色もなく、新来の田舎客のためによく説明の労をとる。
第一を「御簾《みす》の間《ま》」と言い、第二が「奥御簾の間」、第三が「扇の間」で、畳数二十一畳、天井には四十四枚の扇の絵を散らし、六面の襖の四つは加茂《かも》の葵祭《あおいまつり》を描いた土佐絵。第四「馬の間」の襖は応挙、第五「孔雀《くじゃく》の間」は半峰、第六「八景の間」は島原八景、第七「桜の間」は狩野《かのう》常信の筆、第八「囲《かこい》の間」には几董《きとう》の句がある。第九「青貝の間」は十七畳、第十「檜垣《ひがき》の間」は檜垣の襖、第十一「緞子《どんす》の間」は緞子を張りつめる。第十二「松の間」は、十六畳と二十四畳、三方正面の布袋《ほてい》があって、吊天井《つりてんじょう》で柱がない、岸駒《がんく》の大幅《たいふく》がある。
なお委《くわ》しく聞いてみると、間毎間毎にもいちいち由緒《ゆいしょ》と歴史とがあって、やれ「青貝の間」は螺鈿《らでん》でござるの、「檜垣の間」はこれこれの故事で候《そうろう》の、西郷さんのお遊びの部屋は、いつもこの「松の間」の話の洩れないところにきめてあったの、西郷さんのお相手は小太夫といって、月照《げっしょう》さんと一緒に遊びに来られて、その相方《あいかた》は花桐太夫《はなぎりだゆう》であったなど、和尚もなかなか罪を造ったものだなと思わせる話までも聞かせてくれる。
日本の遊女町というものを、社会史上の一つの現象と見て、この後とうてい復活の望みのない日本色里の総本家の名残《なご》りのために、この島原の如きも、物好きな国粋(?)保存家が出て、右の角屋《すみや》、或いは輪違《わちがい》その他の一部の如きに相当の方法を講じておかないと、やがて社会史の一角に、多少の参考材料を失うかも知れない。それで、右の角屋の如きも二百七十年以前、島原始まって(すなわち寛永十八年、六条から今の地に移った時)以来の建築であって、そのほかにもこれに類するものがあるとしてみれば、時代の家屋の建築上からも一個の参考物であると、或る意味からこれを尊重する気になって、素見《ひやかし》に来た道楽者が思わず知らず社会学者となり考古学者となっ
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